逆説のキマジメ (『堕落論』に寄す)

僕が二十歳の頃、同じアパートに、国会に勤める女性が住んでいて。

(たしか、速記者だったような。記憶が定かでないけれど)

或る時、最近どんな作家を読んだの?、との話題になった。

坂口 安吾が面白いと思う、『堕落論』(1946年4月発表)なんかが、というご説。

な~るほど、こういうマジメな人には、新鮮なんだろうなぁ、と聞いていた。

― (太平洋)戦争に敗れた社会的な混乱の中、かつての特攻隊員は闇商売に手を染め、寡婦は新しい男を作る。
封建的な倫理にあって、そういう行為は堕落とされてご法度だった。

けれども、そこで〈堕落〉とされたことこそが、人間性に合致した生き方であって、人性を熟知していたからこそ為政者は、巧妙な禁制を作りだしたわけだ。

いまや、人は堕ちて、堕ち尽くしたところから始めるほか手はない。
そして、人間を取り戻すのだ
― といったことが、安吾独特の、逆説的筆致で語られる。

〈堕落〉してこそ、そこに人間本来の生き方が存す、とはキワモノ的な表現である。
けれど、読んでみると、しごく当たり前のことを言っていて、作品発表から75年が経ってもけっこう素直に、心ある者の胸にハマるのではないだろうか。

書いた当人の安吾が、きわめて礼節を重んずる人だったことを勘定に入れるといっそう、そこら辺がしっくり腑に落ちる。

こんなことを、別のところで書いているのだ。

― 電車に、ご高齢の母とその娘とおぼしきふたり連れが乗ってきたが、混んでいて、あいにく座れる席がない。
すると、ひとりの男性が立ち上がり、母のほうに席を譲ってくれた。
次の駅になったら、母親の隣の席が空く。
そうしたら、娘がさっさと座ってしまったんであるが、それはない。
さっき母に席を譲ってくれた人がまだそこにいるのだから、彼に席を勧めるのが礼儀というものだ……。

つまり、安吾のいう〈堕落〉とは、分別もなく好き勝手に生きることとは違う。

『堕落論』発表から相当の年月が過ぎ、ひょっとしたら、時代の大勢が、彼の唱えた〈堕落〉とは異なる、やりたい放題の〈堕落〉に突き進んでいるのかも知れないな、と思ったりしているのです。

特に、戦火もないこの国で、平気で幼児を虐殺する行為を聞かされるたびに。

では。