友だち。

『箴言』(旧約聖書)は、古代イスラエルのソロモン王(紀元前1011?~931年?)が綴った、というのが一般的な定説

学者でもない僕らには、〈~と言われている〉だけで十分だと思うが、

我が子(つまりは、王権の後継者ら)を、教え諭す表現を採っている。

その中の言葉。

〈世には友らしい見せかけの友がある〉(18章22節)

〈富は多くの新しい友をつくる、しかし貧しい人はその友に捨てられる〉(19章4節)

……こういうのはわかる。数千年前もそうだったのね。

でも、違う箇所には、

〈友はいづれの時も愛する、兄弟はなやみの時のために生まれる〉(17章17節)

(真の友かは、逆境の時にわかる)

ともあるから、父の教えには、手落ちがない。

『You’ve Got a Friend』は、キャロル キング(1942~ )の作詞作曲。

1971年に発表された。

友人であるジェームス テイラー(1948~ )もカヴァーしていて、むしろこっちのほうがポピュラーかも知れない。

かつて学校で習った初歩的な中学英語でも、なんとか理解できるくらいに平明な歌詞。

キリスト教徒でなくとも、同じ価値観で味わえるので、まことに嬉しいではありませんか。

今回は、歌詞付きの動画で、ジェームスの演奏と歌唱。

☞この動画には字幕が設定されていて、画面下の字幕on/off切り換えアイコン(四角形)をタップすると字幕(英語)が表示されます。

では。

とにかく押し込め,休まずに(奈良クラブ戦プレビュウ)

まづは、間違ってはいけません。

このゲームは、我らにとっては、第10節。

第9節は、今月20日のホーム讃岐戦ですから、節の順序が、今週は逆転してる。

松本など4チームをのぞく3部リーグのチームは、去る10日に、それぞれ第9節を戦っているのです。
(この記事を書いているのは、実は、そのゲームの前)

つまり、こっちは入念に準備したうえで、アウェイ(盛岡)戦後、実質中1日の相手とやれるわけ。

……と、アウェイ2連戦を、すこしでもポジティブな気持ちになって乗り切りたい。

奈良クラブ。

4 – 1 – 2 – 3システム採用は、攻撃的にやりたい意思だと思います。

中盤の逆さトライアングルのところでもって、ボールを握り捌いては、攻撃を仕掛けたいのでしょう。
守備面は、失点がここまで 12 。(リーグでも最下位レベル)

もっと得点したいが、守備にも悩みあり、そんな現状でしょうか。

得点の源は、なんといってもサイド。

特に、深い位置から持ち出してゴールまで迫れる、下川 陽太(サイドバック)と岡田 優希(スリートップ)の配される左サイド。

これに対し、右サイドは、高い位置でボールを受けてクロスまで持ち込む。

山雅は、したがって、左右サイドプレイヤ(樋口、馬渡ら) が、けっこう忙しい仕事に追われることを、まづは覚悟する。
で、いつも、相手の先手先手で。

ポイント❶は、クロスの投入(回数)でしょう。

岐阜戦32本、金沢戦23本と打ってきて、

8ゲームをこなし、いつのまにやら、ゲーム平均20本超。
この数字は、リーグトップなんです。

前節の山口による先制点は、安藤 翼が右から入れたクロスが起点となって、こぼれ球を押し込んだもの。

〈こぼれ球〉は、いまや、勝利へのキーワード。

つまり、クロスにドンピシャ合わせたゴールでなくとも、とにかくゴール前で、相手守備の乱調を生みだせる。

この時に、3列目のボランチまでが、一気に飛び込むことが求められる。

ポイント❷ セットプレイにも同様なことが言えて。

一旦、相手の動き(とゲーム)を止めておいて、こっちから仕掛けられる。
コーナーキックなどは特に、ペナルティーエリア内に混沌、混乱が生じやすい。

そして、クロス、セットプレイ獲得の要件はともに、

相手陣地の深い位置にまで、ボール保持、あるいはボール奪取のいづれかで、圧力をかけ続けることで、こっちの陣形を押し上げていること。

こうすれば、相手は、苦し紛れ、あるいは局面打開のため、こっちの最終ラインの裏狙いに走るだろう。

けれど、それにおじけて守備ラインを下げることなく、相手からのロングなボールが正確、精妙、グッドタイミングを欠くぐらいまで、押し込みましょう。

ゲーム進行の綾もあるが、

この前のツエ―ゲンのごとく、カウンター攻撃に特化の姿勢を察知したら、こっちも、適時長いボール、高いボール(ジョップがいる!)をかますなどして、ボールの出どころ、タイミングを狂わそう。

ポイント❸最終ラインにアジリティ(俊敏性)を。

今節の奈良に限らず、対戦相手ならば、前節の、山雅大敗に勝機を見いだそうとするだろう。

つまり、山雅の守備は、1対1で背走させられるとかなり脆弱、とインプットされたのではないか。

これに対しては、

必ずしもアジリティ溢れていない常田に疲れが見えたら、逡巡なく、俊足の橋内にスイッチする、といったようなカードが用意される?

では。

希望の花、淡い追憶。

1890年の2月。

サン レミに在った精神病療養所で生活を送っていた、フィンセント ファン ゴッホ (1853~1890年)に、弟から一通の手紙が届く。

生れた長男には兄と同じ名をつける、という文面。

ゴッホはすぐに、新しい画の制作に取りかかる。

画家自身が、快作と認めたこの画は、弟家族に贈られ、

現在は、ゴッホ美術館(@オランダ)が所蔵する。(サイズ73.3㎝×92.4㎝)

蒼空を背景に、アーモンドの樹と、その枝に咲く薄紅色の花。

ヘブライの伝統では、アーモンドは、春一番に咲くことから、〈先駆け〉の表象を与えられている。

療養所から眺める風景の中に、たまたま花を咲かせたアーモンドの樹が在って、ゴッホが、それを題材に選んだに過ぎない、とは思うが、

通俗な評論はきっと、甥っ子の誕生と命名に、

希望と喜びを感じたゴッホが、春の誕生のシンボルであるアーモンドを選んだ……とでも、こじつけるだろう。

実は。

拙宅の庭にも、アーモンドが植わっていて、この7日に開花。

花より団子好みの僕のことゆえ、種子、すなわち、アーモンドの実がなったら食してみるじゃん?、と家人に提案した。

すると、

― 日本で売られている苗は皆、ビター(苦い)種で、その実は有毒、と聞いたよ、とのご返事。

猛毒らしいから、さすがの僕も、ただただ、樹と花を眺めるだけの日々を送っているのです。

こんな曲でも聴いて……。

ユタ ヒップ(1925~2003年)は、ドイツ出身の女性ピアニスト。

なかなかの味わいですよ。

曲は〈Dear Old Stockholm〉(1956年のライブ収録)

では。

蚊帳の外から,どうしたい? (サッカーに専念してもらおうよ)

金沢戦レビュウ❸として予定していた内容に、すこし追加して、

田中 隼磨氏の声明(4/8付け)に関し、僕の感想を記しておきたい。

冒頭、ひとつのエピソード。

金沢ゴースタの、バックスタンド席。

萬年のすぐ後列には、ご高齢の夫婦が着座したもよう(会話を聞いただけ)。

アウェイ参戦だから、それ相当の熱きファンと思われるが、
雑談の中、ご亭主のほうが、

― 山雅のフロントはなってないと聞く、と言い及ぶ。

聞き役の奥様が、それに何か返して、結局は、チーム低迷の話が続いた(と記憶)。

茶飲み話的に、こういった会話がなされるのは、

松本山雅が、着実に地域を取り込んできた、という勝利以外のなにものでもないが、

いい歳をして、こういう根拠に欠けたもの言いの、他愛の無さに感心し、

と同時に、こういうのが風評なんだろうな、と思った。(☞ 以上、レビュウ❸)

さて。

田中氏の声明について……、

❶読んで、僕なりにホッとしたのは、氏が松本山雅と袂を分かつに至ったのは、もっぱら氏の意思であって、山雅側からの辞任圧力や勧奨ではなかったらしいこと。

❷声明は、辞職の経緯をハッキリ説明するのが目的、とあるが、退職事由を訊きたいと、氏本人に迫るファン&サポーターが少なからず在るんだなぁ、との感慨。

就任から短期だし、いささか早計では?、と思ったが、そこまでして他人の事情を知りたいのか。

〈厳重注意〉という字句が、ちょうど山雅界隈で飛び交っているのに触発された、直情径行な行動と言えば、それまでだが、

声明が単なる釈明と言いつつ、訴える相手を〈変える〉効果も期待していて、絶妙のタイミングを計っての発信、と受け取れもする。

❹文章を一読すると、けっこう不分明な点があるけれど、

ここでは、暴言を吐いた人物(コーチ)を、山雅として最初は処分する気もなかったが、後になって厳重注意を行った、と推定したうえで

田中氏によれば、クラブ(幹部)による後日の説明は、あきらかに〈二枚舌〉(虚偽)であるし、自分がそれを指摘しても訂正しなかったのは、不誠実。

厳重注意にしても、その実効性が疑わしく、(ユース選手の過去事例を引いて) 処分が、不公正である(一貫性がない)。

つまり、組織内に、規律が無いに等しい。

結果、そういう組織は、とても自分の信念とは折り合わないので、身を引いた、というのが要旨か。

❺組織内にいて直接見聞したわけでないこと、松本山雅の、行動規範、社規(就業規則)を知らず、意思決定の手続きやプロセスの実態を知らず、
エグゼクティブディレクターの権限も、知らない。

ゆえに、田中氏からしたら、そういう事実認識なんだろうなぁ、という感想。

こういった事案は、僕のいままでの社会/職業人生活では、それほどめづらしくもなくて、

これくらいなことで、組織的な腐敗、風土(悪しきもの)と、色めき立つことかいな、と思う。

信条はわかるが、自分の進退とひきかえにするほどのことか?、と。

さらに、僕のホンネ。

特に、経営的、事業運営的な事案の決定にあたって重要なのは、
正しい、間違っている (正義 or 不正)ということではなくて、

その決定が、組織内で機能して、成果をもたらすのかどうか?、だと思っている。

幼児に、ウソをついちゃあいけないよ、と教えることは大切だが、
それですべてを推し通したら、むしろ、より苛酷で、不毛な世界もあり得ます。

❻いちばんの危惧。

ウソつきで、公明正大さを欠く組織(と幹部) であるから、

クラブ(会社) は腐敗 ☞ チーム成績は低迷 ☞ 降格も当然 ☞ ファン&サポーターには見放され  ☞ 元凶の経営層とフィールドマネジメント(監督など) はその職に値せず……と続いていって、

挙句の果ては、 1 – 6 の敗戦も、全てが組織がなっちゃいないから。

それならば、いっそ会社も一新するか、精算してしまえ。

でたらめな論理が、しかも、(無責任な) 社外から、湧き起こること。(すでに発信されてるのかいな?)

さらにそこに、〈他人の火事は面白い〉心理の、通りすがりの野次馬が、相乗りしてくる。

無理解のうちに行なう批判や批評、口撃の一切は、その対象を貶め、弱める。

……で、切なる結論。

次なるホームゲームで、上に示したような論法の、訳もわからん内容の横断幕が掲げられないことを願う、と共に、

今こそ、騒音を尻目に、チーム山雅には、サッカーに一意専心してもらいたい。

ただ、それだけを望みます。

では。

いろはの〈い〉を見逃すな (金沢戦レビュウ❷)

たとえ、スコア 1 – 6 になっても、

サッカーでは、セコンドからタオルが投げ込まれることはない。

終了の笛が鳴るまでは、ファイティングポーズを採らなければならないし、

実際、山雅プレイヤーが、(その心中はともかく) 最後まで、ゴールを獲りに走ったことを、僕は、称賛したい。

さて。

ゲーム内容そのものをレビュウするにあたっては、

ひとつ。
〈失敗や挫折は、そのこと自体よりも、その評判によって より多く傷つく のだから、
試合結果への批判/反応や、使い古された形容詞の氾濫をかいくぐって、注意深く、かつ、シンプルに、ゲーム内容を探る態度を採ること。

ふたつ。
1 -6 の事態があのように出現したのは確かであるが、1 – 6 にならねばならなかった、とは、誰にも解明され得ないだろう。

言いかえれば、

ゲーム結果の必然性などは、
過去の経験などから作り上げられた、規則性を凝らした推断に過ぎないから、これを排除しなければならない。

すると、このゲームの、明日を見すえた論点とは、以下のとおり。

❶山雅が自分式のゲームをおこうなうについて、決定的に疎かな面が生じた。

ファーストディフェンス(前線からの守備圧力)に、各個の連動性が乏しく、かつ、中盤が、前線について押し上げられなかったために、
陣形の中盤に、大きなスペースが出来てしまい、そこを金沢のボランチと、左サイドバックの石原に自由に使われた。

特に、石原は、縦に直線的に動くのではなく、中に入って、3人目のボランチとしてボールを動かしながら、その前の #30のアウトサイドプレイヤーへの縦突破を支援することに専念。

これは、ずいぶんと効いた。

中盤に数的優位を与え、山雅劣勢の源となったから。

ジョップワントップについては、まだまだ、練度と、アジャストを要するように思う。

ボール競合時、金沢#3ディフェンダーは、レフェリーから見えないところでジョップのユニフォームを引っ張る行為を、巧く挿し込んでいて、こういうことへの対処にも、成長すべき点はあるだろう。
(ただし、ああいったファールは、線審が採るべき)

❷前後半のスタートの時間帯に、フルスロットルで入るのは、山雅の十八番。

金沢戦では、金沢ディフェンスの眼と身体が馴れる前に、それがゴールに結実したのは、ひとつの成果。

30分近くになって、十数分間に、立て続けの 4失点には、

僕がつねにいうところの、ゲームコントロールの拙さ、ひ弱さが原因しているにせよ、

金沢の全ゴールが、能動的で自己完結的なものだった以上、山雅の守備云々を言ったところで、あまり前向きな検討は生まない、と僕は思うが、どうか。

是非はともかく、相手より多く得点を獲る、この看板はいまや下ろせない。

❸ゴールへと結びついたプレイや、サイドにおける攻防において、山雅の各個は多く、金沢プレイヤに競り負けた
これらを、単に、個の技量に解消することをせず、ここまで構築してきた、個で追い込み、かつ、挟み込んで相手を阻止する守備に、今一度、生命を与えなければならない。

自分たちのサッカーができなかったことと、金沢の力量と処方、この関係性に、どうどうめぐりの議論はあまりすべきでもなくて、

ざっくばらんな話、いつものやり方ができなかったについては、基本、金沢の対処が、こっちを上まわったことに間違いはないのだから、

このことを謙虚に受け止めて、この隘路を切り拓こう、山雅。

ゴースタの借りは、キッチリとアルウィンのピッチで返す、そのネタは、(決して精神論でなく) 手に届く範囲に在る、と診ます。

では。