たいした話題もないから、

無理にでも事を強調して耳目を集めようとするのが、マスメディアのたちの悪いところ。

たとえば、2020年の今頃、

3年もすれば、この新型インフルエンザ流行騒ぎも沈静化するはず、と僕は書いた。

これは、スペイン風邪パンデミック(1918~1920)の推移をみれば、素人でもおおよそ予想のつくところであって、

問題は、日本のリーダーたちが、終息への長期的な予想を立てて、この新しい感染症に立ち向って来たか?、に尽きる。

街頭の群衆を映して、マスクの着用がどうのこうの言っているようなマスメディアのくだらなさを見せられると、救われない気持ちになります。

さて。

2部リーグでは、4節までが終了。

ここでは、清水エスパルスが、4戦4引分けでいまだ勝利を獲られず、と騒がれているらしい。

勝てていないのは切ないが、もともと地力に勝っているチーム。
しかも、負けてもいない。
かならず優勝戦線の軸になることは、ほぼ間違いがないのだから、浮き足立つこともないだろうに。

僕がこれはいける、と(秘かに)思うチームは、徳島ヴォルティス。

現在、2分2敗とずっと下のほうにあるが、チラっとみたら、本場スペインを凌ぐような攻撃的なサッカーをやっていて、こういうチームには惹かれる。

で、豊富にブラジル選手をそろえた Vファーレン長崎はどうか?

ところが、対藤枝戦(2/25 0-2の敗戦)ハイライトを観たら、なんと長崎の攻撃シーンがひとつも出てこないのに、唖然。

こっちのほうは、少々症状が重いのだろうか。

では。

変節の岐阜,貫徹の山雅 (vs岐阜レビュウ その❷)

岐阜も山雅もともに、ボールを握るサッカーを志向している(と思う)。

岐阜が、傑出のパサー、庄司 悦大を重用するのは、その証拠。

かたや、山雅は、パスで畳みかける〈守功一体型〉サッカーへの変換を目指す。

しかし、今節。

岐阜は、機とみるや、前傾態勢の山雅最終ラインの裏に、ロングボールを放り込む、ヨーイドン作戦に打って出た。

臨機対応型へ変えてでも、ホーム開幕と、我ら山雅に勝利せんとするその姿勢は、14分のゴールに結びついたわけだから、それはひとつの奏功だった。

他方、山雅。

こっちは、終始パスでリズムを創り出してゴールに向かうサッカーを貫徹。

特に、60分あたりから数分間の、一方的にボールを手中にした波状攻撃は圧巻で、まさに、こういうのをやりたいんだろうな、と納得させられるサッカーでありました。

ただ、そこには、クロス精度、飛び込みの位置やタイミングの稚拙などが介在し、得点には至らなかった。

けれど、ペナルティエリアまでボールは到達できているから、あとは、そのあとのクオリティを高めるしかない。

その先の課題がみえていることが重要であって、いちばん困るのが、なにをやりたいんだかわからない、ってやつだろう。

とにかく、3~4人が一斉にゴールに向かって走り込んでくる攻撃性、こういうのを待ってた僕からすると、そういうシーンを多く観られるだけでも、御の字。

また、セットプレイ、特に、コーナーキックにも、アイデアが豊富。

ショートコーナー、あるいは、ゴール周辺に密集をつくりだしておいて、セカンドボールを確実に獲るため、ペナルティエリア外縁に何人か置くとか、けっこうこまかな手法を駆使している。

4バックを採用したから、センターバック(この日は常田、野々村)にも、ふたりで基底をやりくりする覚悟ができたんだろうか。
(つまり、左右サイドバックは高い位置を採るので)

センターバックによるボール保持、ボランチとのパス交換の練度も、かなり向上。

ということで、チーム全体の連携にとって、この日は特に、ボランチふたり(パウリ―ニョ、住田) の貢献度は高かった。

こういう山雅に対し、岐阜は、後半になると、カウンターで一矢報いるサッカーで応戦。

けっこう好機を創り出したけれど、ボールの出どころとドリブラーは限定されているから、山雅のほうは、なんとか凌ぎ切れた。

……、ということはです。

客観的な話、ドロー決着自体は、岐阜にとっての成功であって、yamagaからすると、勝てたゲームをモノにできず、といって地団駄踏むべきことなのかも知れない。

でも、今は、変容と進化の過程にどっぷりと突き合わされている嬉しさを楽しむ、ってことで。

では。

ささいな, けれど大きな変化 (2023.3.12 FC岐阜戦レビュウ その❶)

前半14分、岐阜右サイドの窪田に向かって、(おそらく宇賀神 庄司から)鋭く挿し込まれたボール。

それを、下川 陽太がトラップを後逸した隙に、窪田に衝かれシュートまで持ち込まれて失点。

ただ、その後。
デザインされたコーナーキックを、パウリ―ニョのミドルシュートに結実して、前半のうちに、同点に追いつく。

スコアは動かず、1 – 1 のまま、ドロー決着。

帰宅後、ハイライト動画を観る。

前半はともかく、後半部分は、岐阜の攻撃一辺倒で構成されていて、まるでゲームの様相(=本質) を物語っておらず、チト呆れた。

が、まぁ、あとでフルタイムで観返すとして、

今回は、DAZNの映像に写り込んでいるかどうかは不明の、
いまの山雅を象徴する、大きな変容のことだけを指摘しておきます。

キックオフ直前、チーム全体が円陣をつくって意思統一を図るやり方が、ひとつ。

更に、今季初失点の直後、自陣に全員が集まって、確認なのか檄の交換なのか、とにかく、なんらかのブリーフィングをおこなったこと。

こういったことは、ここ3年見なかったことで、

ゲーム進行中、チームとしてテコ入れと意思疎通を図ろうとする姿勢であるから、こういう部分を重要視したいと思います。

で、よりこまかいゲーム評は、その❷以降で。

では。

これこそ事件。

ジム ホールは、ビル エヴァンス『Undercurrent』(1962年発表のアルバム)で、そのギター演奏に出逢っていたから、馴染みはあった。

だから、図書館で、彼の名を冠した『アランフェス協奏曲』(1975年)を見つけた時も、まぁ、ひとつ聴いてみるかぐらいの軽い気持ちで借りて来た。

ところが、早速、車中で流してみて、これはただごとならぬ好演奏ではないか、と驚いてしまった。

ジムのエレクトリックギターはともかく、一緒に演ってるメンツに呆れてしまう。

トランペット☞チェット ベイカー、アルトサックス☞ポールデズモンド、ピアノ☞ローラ ハナ、ベース☞ロン カーター、ドラムス☞スティーブ ガット……か。

これだけのメンバーが、呼吸乱れず、かつ、各パートを自在に演奏しているんだから、これだけの絶品になるわけだ。

後で調べると、発表当時から大ヒットしたらしいが、なんでも後から追いついて聴いている僕のことゆえ、さも、自分が発見した大事件のように書いてしまう。

というわけで、今日は、このアルバムを流して岐阜へ向かうんです。

で、冒頭の、〈You’d Be So Nice To Come Home To〉(戻ってくれて嬉しい)を。

ジム ホールのギターには、切ない郷愁へと誘う魅力がある。

では。