贅沢にも,いろいろあって。

贅沢は敵、などとは、決して思わない。
(そういう世代は、もう多くはお墓に入ってしまった)

ただし。

あくまで、神がゆるし給う範囲内で、ヒトはそれを楽しむべきだろう。

とにかく、自分の分限をわきまえていないと、何事にも、洗練さが伴いません。

ご幼少、たしか、保育園の頃、聞かされた紙芝居。

ひとりの子供が、果実だと、味わうにどれがいちばん優れているかと、思案している。

あれは、皮を剥かないと、これは、タネを吐き出さないと……、

そうだ、無花果(いちじく) ならば、獲ってそのまま食べられるぞ、だから、いちじくが、いちばんだ!!

これが、実物を知る以前の、我が人生における無花果とのなれそめ。

庭の端、隣家との境に、いちじくを植えてから、(たぶん) 10年。

いまや、(おそらく) 数百の実をつけるようになって、その甘味に惹かれては、野鳥、クバンバチ、スズメバチ、コバエが、さかんに集ってくる。

自然をリスペクトする僕ゆえに、

彼らを避けて、かつ、高いところに成っているのは諦め、
朝夕、葉陰から熟れたやつを、ひとつ、ふたつ捥ぐと、

そっと割っては、そのまま口にふくんで、柔らかな果肉を楽しんでいる。

はて?

旧約聖書の、イヴとアダムが食した、命の樹の実とは、一体何だったのか。

具体的な樹木名は、記されていない。

この際、無花果でもいいや、などと、秋の空を見上げてはいるけれど、

これって、かなり贅沢な時間なんだろうな、と思う。

では。

そして,これがリアル (岐阜戦を考える前に)

月曜日の朝、職場でスーさんに逢ったら、

― いやあ、(順位表を)よくみたら、えらいことになってますねぇ?

― 2位(富山)と、勝ち点で 4差、その下は、山雅まで 7チームが詰まってる……。

― これ、なんとかなっちゃうんじゃあ?、萬年さん。

―でもね。
サッカーの 勝ち点は減らないので、絶対的に、上位が有利よ。
究極、上の結果次第というのがあるから、ギリギリする日が、続きますわ。

……正直な話。

こっちにできることは、ひたすたら勝ち点を積むことであって、

その上で、上にいるチームのつまづきを期す、ってのがリアル。

だから、8割がたは、あなたまかせの辛い日々ではある。

ただ、ありがたいことに、直接対決して勝ち点を詰めたり、ひっくり返すチャンスが、ひとつ下位の八戸も入れると、 まだ、4つも残っているから、

みづからが道を切り拓ける日々も待っている。

そのひとつめが早速、この日曜日、対岐阜戦でやって来るのだが、

どうだろう?、果たして勝てる気がするか、そうでないか。

精神論者でない僕は、頻りに、そんな自問自答をせざるを得ない。

では。

〈詩〉ではない 何か。

吾亦紅、と書いて、〈われもこう〉と読ます。

秋の日に、桑ズミにも似たその花が、風に揺れている……。

自分もこうなりたい、というネーミングは洒落ているが、

果たして、そのお方、どうなりたかったのか知らん?

 

宮沢 賢治 (1896 ~ 1933 ) の死後、遺品の中、見つかった手帳に記されたメモのひとつに、

雨ニモマケズ、風ニモマケズ、で始まる、30行が在った。

この冒頭だけで、読む者を惹きつける賢治は、やはり言葉の達人。

けれど、案外、多くの人は、30行の終りまでを読んだことがないのでは?

であるなら、どこかで立ち止まって読むのも、ムダにはなりません。

僕は、その一節の、

イツモ シズカ二 ワラッテヰル、が気に入っている。

ただし。

これは、決して〈詩〉ではない。

理由は、作者が、詩として発表するつもりのなかったこと、これに尽きます。

賢治の詩に触れればすぐにわかるけれど、これを詩と認めないのが、賢治。

せいぜい、自分はこう生きたい、と書き流してみた、そんな記事です。

けれど、たとえ、

実際の賢治が、こういうふうに生きたかったとしても、

作者の生活態度と、その詩作品の価値とは、なんら関係のないのが、文芸のいいところ。

読む側が〈詩〉と思えば、それでいいだろう、って?

言葉による、気の効いた、斬新な発想や感覚の羅列。

いやいや、詩とは、それ以上のもの。

つまり、この世界を観る〈こころざし〉といったもの(補足しました)が、詠み込まれていなければなりません。

では。

21世紀少年による現実。 (宮崎戦レビュウ❷)

宮崎戦の先発メンバー。

36歳の村山(ゴールキーパー)をのぞいた、フィールドプレイヤー10人の平均年齢は、23.4 歳だった

調べたわけではないが、3部リーグにあっても、最少年齢の部類に入るだろう。

さらに、そこには、ホームグロウンプレイヤーが、4人含まれる。

この4人はすべて、レンタル移籍、いわば、出稽古の修行を経ていて、レギュラーを張るまでに、それなりの数年を過してきた。

現状山雅のサッカー、特に、その強弱についてどう思おうが、

認めようが、認めまいが、

これが、僕らが一緒に戦うチームの現実。

大学、高校を出て2~3年の経験を積んだプレイヤーが、ともかくも、中心的な役割を担う、そういう世界。

ここには、一本筋の通った、計画的なチーム編成のヴィジョンがうかがわれる。

やってるほうは、21世紀生れ、観ているほうは、多く20世紀の少年少女……。

そういった事情をベースに、

宮崎戦では、おそらくは狙うところの、ひとつの典型を魅せてくれたチーム。

❶徹底して、より前方からのファーストディフェンスを敢行することで、
相手から自由なボール扱いを奪い、こちらの攻撃起点を高く保つ。
(単に、カウンター攻撃に活路を求めるスタイルとは違う)

❷ボールを握ったら、常に〈前方向〉へとそれを動かし、かつ、相手の守備陣形が整う時間をあたえずに、攻撃をおこなう。
たとえば、菊井は常に小松 蓮にボールを入れようとし、野々村は、野澤に縦パスを通そうと機をうかがう。
いったんボールを後ろへ下げて、前を向いたプレイヤーに預け、そこから前にボールを挿し込む、なんてことも多用。
〈速く〉を意識していたから、あの夜のクロスは多く、斜め後方から中央へ蹴り込まれた。

宮崎にしてみれば、山雅のファーストディフェンスを、中盤でかいくぐりたかったんだが、そうするには、いささかボランチの動きが不活発でそこが使えず、サイドへサイドへ展開するしかなく、山雅にとっては、守備するに容易だった。

#16 石津がいちばん厄介な存在で、中央に入ってきては、危険な縦パスを通すなどして決定機を演出。

ゆえに、60分、宮崎は石津をピッチから下げ、フォワードをそっくり3枚替えする手法を採ったけれど、これは山雅を利することとなった悪手だったと思う。

中央に自在に入って来て仕事ができる者の不在は、痛い。

若いが故かも知れないが、山雅プレイヤーはけっこう走れているから、フレッシュな相手にやられっぱなし、ってことは、少なくなっている。

3連勝がかかる、次節岐阜戦でも、❶❷は間違いなく継続、深化でありましょう。

では。

欲張ったからこその (2023.9.17宮崎戦レビュウ❶)


Happy Birthday !!

村越によるゴールを、結果として、モノにする格好で、

遠方のアウェイ、1 – 0 の勝利。

先制後。

当たり前のこととして、2点目を獲るべく攻め続けたからこそ、手に入れられた勝ち、と言えましょうか。

このことは、本当に大切な姿勢。

ガチガチな守りに打って出たのは、ようやく、90分あたりからでしたし、

それまでは、宮崎ディフェンスの疲れを衝く形で、多くファールをもらうこともできて、

セットプレイに時間を費やせる幸運に助けられた。

まぁ、相手を疲弊させたのは、もちろん、山雅の殊勲なんですが。

さて。

レギュラーの両翼(サイドバック下川、藤谷)を欠く布陣。

これ、長野とやった4箇月前にも起きた、ある意味、緊急事態。

ところがここに、チームとしての成長、深化がはっきりあって、

ファーストディフェンスを怠らない前線と、
果敢に攻撃を狙う守備陣と、
それを連結して、ボールをさばく中盤(ボランチ)の
3つが巧く連動することで、

宮崎にはフリーでシュート体勢に持ち込まさせず、こっちは、常に前を向いてプレイした。

たしか、#10下澤のミドルシュート (村山の好セーブ) 1本くらいでした、自由に打たせたのは。

宮部の起用も、宮崎のやっかいな左サイド(山崎ら) を外に追い出すのに大いに効いた。

ミスもあったけれど、それをみづから取り返そうとするプレイが続きましたから、

僕からすると、昨夜こそ、〈完勝〉の部類に入れるべきゲーム

MVPとしては、攻守に奮迅した、小松 蓮を、断トツに推します。

では。