イチかバチかで いいこと悪いこと。

一週間くらい前に、息子家族が、遊びに来た。

COVID- 19 陽性者が判明したため、家族隔離状態の長い日々もあったりで、実に久しぶりの来訪だ。

自然、話題が山雅談義へと移っていき、ついちゃあ、新監督について議論となる。

息子曰く、
― 彼が、過去に指揮を執ったチームすべてにおいては、年を追って成績が下降。
要は、ジリ貧になったという結果からして、今回の招聘については大いに疑問、あり得ないでしょう。

― なるほど、そういう見方もあるか。
他にものさしも見つからなけれぼ、それが、正論なんだろう。
ただし、大宮での指揮は、最悪のチーム状況で引き受けているんだけどね、と僕。

ところで、以前、僕が批判した、某サッカーコメンテーター氏の〈ハマれば面白い〉発言。

あれは、結局のところ。

これといって、来季アウトプット(戦績) の良否については、確信はないが、
この際、イチかバチかでやるってもんでしょう、クラブが選択したんだから。

― そういう感触を、違うコトバで表現したに過ぎないのだ。

かっこう良くいうと、乾坤一擲(けんこんいってき) ってやつ。

意味は、命運を賭けて、のるかそるかの勝負をする。

ま、サイコロは既に投ぜられたのだから、そっち(監督就任) のほうは最早良い、として。

この前のW杯決勝戦を観ながらつくづく考えたことなんですが、

来季目指そうとする蹴球スタイルの根本的な思想においては、

どうか、イチかバチかのサッカー、という文字を、徹底して排除してもらいたいものだ。

端的にいえば、ピッチを目いっぱい使い、やすやすとタッチラインに逃げることはもう止めて、ボール支配を諦めずに、相手より先手先手で多くボールを動かしてゴールに向かう、そんなサッカー。

そのためには、まづは、ゆるぎないほどに、各個の技量を磨くことから。

どうです?

実に、ささやかで控えめな注文でしょう?

では。

敢えて,狭き門より入れ (ナショナルチームの今後)

4年後。

W杯本大会の切符は、48枚に増える。

予選リーグは、3チーム毎の16組に分かれてやるらしい。

その場合、各組第1位が、ベスト16。
(註:その後、再検討の話があるとかないとか?)

大会への道はかなり広くなり、本大会の総体的クオリティは確実に下がっていく。

で、安心してしまって、それでいいのか?

否。

敢えて〈狭き門より入る〉発想こそが必要では?

JFAとJリーグが結託することで、トップリーグのチーム 2つ、3つを偏重して強化し、そこを基幹的に用いるようなナショナルチームを形成していく。

今回のアルゼンチン優勝によって、

たとえ代表チームであっても、まるでクラブのような結束と連係に秀でなければ、トップを獲れない事実がはっきりした。

オールスターの集団ながらも、誰もが、自分を殺して〈水を運ぶ者〉に成れるチーム創りが世界基準、ということ。

これ、リーグの上位クラブには手厚い、資金の偏重的な投下を意味しますが、

本気でベスト8を狙うのならば僕は、それくらいのことをやって、Jリーグとナショナルチームとを、同時に強化するような戦略があっていいと思うが、どうだろう?

代表プレイヤーは、結局は海外リーグでやっていなければ、という話は、そういう潮流にただただ流されつつ、特段の手当てをしていないからゆえの発想であって、

今回のメンツにしたところで、

技量のベースは、圧倒的な外国籍多数プレイヤーの中で揉まれることで高まっているとは言え、世界ベスト10にランクインするようなクラブのメンバーはひとりもいないのだから、絶対的な要件でもありはしないのだ。

僕は、環太平洋に位置していることを口実にしてでも、

日本は、アジアサッカー連盟からはもう足を洗って、中南米サッカー連盟に加入させてもらうべき、と前々から主張しています。

では。

背負うものが どうやら違う (我がナショナルチームの総括)

決勝戦のクオリティーの高さは、普段なら寝落ちしてしまう家人が、120分の録画をずっと観ていられたこと、それが一番わかりやすい証明でした。(……以上、昨日の記事へ付記)

(以下は、2022大会が終わったのをもって、5日前の原稿を、ほぼそのままで投稿)

予選突破したとは言え、成績的に、前回を上回ったわけでもない。

(予選敗退、予選突破の繰り返しで来て、ここ2大会連続の突破ではあった)

おそらくドイツ、スペインといった強豪と呼ばれる相手に勝ったこと(勝ち点6)が、余計な印象として、そのリアルをおぼろげにしている。

その戦績で帰国して、どちらから発案したのか?、義務的な表敬とは言え、

プライムミニスターが歓迎面談してくれるんだから、日本選抜は、なんとまぁシアワセなことか。

言いたい文句はいろいろあるが、出ると決まったからには応援するわ、が大会前、おおかたのムードだった。

で、この成績でご苦労さん、の笑顔で終わっているあたりが、この国のサッカーの限界なんだなぁ。

(ここで、彼の名誉のため断っておくが、ハリルホッジの轍〈主力プレイヤーとの衝突〉を回避するため、叛旗を挙げそうなプレイヤーはあらかじめ呼ばず、背番号#10を、薬にも毒にもならないように起用した今回の監督は、なかなかの策士。

ただ、三苫、三苫に偏り過ぎて、結果、久保 建英を活かせなかったのが限界)

たとえば、柔道をやる者が日の丸を背負う時のような過重な負荷を想い起してしまう。

とは言っても、蹴球ナショナルチームに対し、それなりの負担(=必死さ)しか負わせられないのは、こっち側の落ち度でしょうけど。

では。

ふさわしい勝者 (2022W杯ファイナル)

たまたま今日が非番だったので、真夜中に起きて、決勝戦を観ました、初めてのフルタイムで。

アルゼンチンが常に先手を獲る格好で、延長戦までやって、3 – 3 。

このため、5人制ペナルティキック戦となる。

フランスが、ふたり失敗。

アルゼンチンは4人目までが成功して、そこでジ エンド。優勝(通算3度目) を決めた。

……感じたことを、いくつか箇条書きします。

❶公共放送による放映。
実況、解説ともに、終始絶叫型には程遠いトーン。
落ち着いた語り口で貫かれていたので、気障りでなくて、おおいに救われた。

❷保有するプレイヤーを活かすやり口、あるいは、追求するサッカースタイルにそれらタレントを当てはめる戦略など、指揮官(首脳陣) の仕事ぶりが、こちらに強く伝わってきた。

完熟度には差があった(アルゼンチン>仏) 。

が、やりたいサッカーが双方はっきりしていて、ブレずにそれが表現されるのを観るのは、なんとも心地よかった。

❸上の❷に関連して。

球際の競り合いでのボールロストはあったけれど、アルゼンチンのほうには、120分間とおしてのミスは 1 、2 度のみ。

安易にタッチライン、ゴールラインへと逃げるプレイは皆無。
刻々のプレイに責任感が、当たり前のように驕りもなく込められていて感服。

ジャッジへのアピールは、リードしているアルゼンチンのほうに、はるかに必死さと執拗さがあった。

これこそ、勝ちを自分たちに引き寄せる地味なプレイだったかも知れません。

月並みになってしまうけれど、国旗を背負う、背負わせる、ってことが、これくらい高まらないと、ここまで到達できないのか……。

ホンネを言えば、メッシに勝たせたかった。

そして、勝利の女神(ニケ)は、それを胸(ナイキマーク) にして戦ったフランスには微笑まなかった。

けれど、ふたつの国いづれもが、頂点に立つにふさわしい者たちであったことは確かでありましょう。

では。

妄想その❷ (新しき葡萄酒は 新しき革袋に入れよ)

そもそも、サッカースタイルについての、議論のはじめ。

ボールを動かすことに(客観/主観で) 長けていれば、より長い時間ボールを握るサッカーを、チームとして目指すに違いない。

こっちがボールを持っている限り、相手は攻撃に出られないわけだから。

さらには、敢えてボールをイーヴンにするような空中などでの競合戦も避けるだろう。

そうする技量に乏しいから、初動態勢としてボール保持は捨ておき、守備からボールを奪取することを狙い、一閃反転攻撃を仕掛ける。

それが、ひと昔前、しんがりからJリーグにやって来た山雅が、採らざるを得ない戦法だった。

そのために、ボールホルダーに振り回されてもへこたれない走力と、奪うための、球際に厳しいスタイルが導入された。

アルウィンでは、そういう情景をおおく観ながら、10年が経過。

さて、今。

山雅(力量)の現在地を測ったときに、果たして、こういうサッカーが選択されるべきかどうか?

そこら辺の議論から組み立てないと、スタイル論は、おかしな方向へ行く。

実際フタを開けてみなければわからいない。

けれど、はじめから、過去のサッカースタイルの全受容ありき、でいいのか?

たしかに、絶対昇格、といった尻に火が付く緊急的な欲求はあるにせよ、

もっと自由、闊達に、現有および新しいタレントを活かすような、新スタイルを掲げないと、せっかくの監督交代に価値もあったもんじゃない。

さて、この記事のタイトルは、聖書、ルカ傳第5章38節からの引用。

この直前で、キリストは、

― 誰も新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしない、もしそうしたなら、葡萄酒は革袋を裂いて漏れ出し、革袋もダメになるだろう、と言っている。

山雅の〈のれん〉= サッカースタイル、という乱暴なロジックで、すべてが語られてしまうと話にならないのでは?

堅守、速攻を、我がチームの専売特許と思うのは、時代錯誤ですよ。

では。