タランティーノで盛り上がる。

ことの発端は、

アベちゃん(仮称、職場の同僚)が、最近、

西洋美術館(上野の)で、モネ展を観た、というお話。

これが、マネ展だったら、きっと、僕も上京したことだろう。

額縁に入れて鑑賞される西洋絵画が、

リアルタイム(同時代的に)で、日本に紹介された始まりは、

印象派と呼ばれるパリ発のムーヴメントの頃だった、と思っている。

けれどその事情が、多くの才能を、乱暴に〈印象派〉でくくってしまった功罪は大きくて、

おかげで、

日本ではいまだに、マネもモネも、しまいには、ゴッホでさえも印象派と一緒くたに考えられているのでは?……

さて。

ところが、話が、なぜか途中から、

クエンティン タランティーノ監督『パルプフィクション』(米映画、1994年日本公開)に移っていって、

アベちゃんも僕も、この作品を、きわめて高く評価する姿勢で一致するとは。

トラボルタが、ボスの愛人(ユマ サーマン)につき合ってダンスを踊るシーンね、

あれのどこがいいのかわからん、凡庸な、という点でも話が嚙み合ってしまう。

むしろ。

ブルース ウイリスが、裏切ったギャングのボスに遭遇してしまう場面や、

殺害の前に、ギャング(サミュエル L ジャクスン)が聖書の一節を唱える場面、そのほうが観るに値する名シーンでしょう、とか。

アベちゃんによれば、

タランティーノ物では、『ワンス アポン ア イン ハリウッド』(2019年公開)も必見なんだそうで、(僕は観ていない)

― でも、あれは 6年も昔の作品です、と言うから、

― 君の人生からすれば、その3分の1に相当するから遠い過去かも知れんが、

その10倍も生きてきた僕からは、ごく最近の作だよ、としておいた。

ところで。

とある決まった部屋(密室的な舞台設定)の中、俳優がそこに出たり入ったり、

そして、ほとんど意味もないモノローグ(独白)に、意思疎通も欲せずに、解決も願わずに、えんえんと浸る。

こういった脚本の作り手であるタランティーノは、まさに、

アントン チェーホフ(1860~1904、ロシアの劇作家、小説家) の、

当世における、正統なる後継者、と考えていいのではあるまいか。

逆からみれば、そこにチェーホフの現代性が存する、と。

では。