春の雪に,無題。

今朝は、春の雪。

2月28日の夜に。

友人からショートメールが入っていた。

ジーン ハックマン亡くなりましたね。エネミーラインや、ポパイ渋かったです。

〈フレンチコネクション〉(1971年 米映画)で演じた、

ニューヨーク市警察の麻薬課のドイル刑事。そのあだ名が、ポパイでした。

好漢、悪漢、どちらも上手くこなせる俳優だった。

さらに他の作品を、いくらでもとめどなく、引き合いに出したくなるけれど、ここは我慢して、

フレンチコネクションでは、相棒のロッソ刑事役を演った、ロイ シャイダー(1932~2008)が、良かった。

あだ名が、クラウディ(cloudy)なんで、その性格が〈暗い〉。

クラウディが、颯爽としたアメリカントラディショナルの着こなしで、

ポパイの強引な捜査に嫌々ながら(憂鬱に)つき合う、ってところがなんとも味があった。

(コンビを組む刑事物のはしりでもあったか)

ロイ シャイダーは、

後年の、ジョーズ(1975年)の警察署長、マラソンマン(1976年)での実業家(ダスティンホフマンの兄として) のほうが、世に有名かも知れない。

……と、ここまで書いて。

訃報に接しては、故人を偲ぶ自分に、少々ウンザリときてしまう。

存命であろうとなかろうと、

今の今だって、誰かに思いを馳せたり、できれば、その人のため時間を使わなければいけないのに……と。

ま、せっかくなんで。

おふたりのご冥福を祈りつつ、

フレンチコネクションから、車のロッカーパネル内に、密輸された麻薬を見つけ出すシェーケンスをご紹介します。

では。

なぜ,映画『Let It Be』(1970年公開)を評価しないのか?

その理由(わけ)を、ふたつ。

❶映画『A Hard Day’s Night』(1964年公開)は、
多忙な日々(Hard Days)を送るビートルズが、実録風に、彼ら自身を演じて魅せた、洒落たコメディだった。

当時の売れっ子アイドルがドタバタと画面を動き回る、とは言え、

白黒ということもあって、

『Saturday Night And Sunday Morning』(土曜の夜と日曜の朝、1960年英映画)に一脈通ずるような、シニカルな風刺が効いている良品。

僕の中では、これとの比較がどうしても頭をもたげる。

いくら、スタジオセッション(曲の作り込み)や、手短に演ってみせた公開演奏を描くにしてもですよ、

この後、名作アルバム『Abbey Road』(1969年秋発表)を創る力がある彼らなのだから、

見え透いたヤラセ、たわいもない会話やギャグ、そういったもので、音楽制作の仕事ぶりをうすめて見せるのは悪手だろう。

❷セッションに参加したビリー プレストン(1946~2006年) の、作品中における扱いが、あまりにも軽い。

ビリーのキーボード演奏の素晴らしさが、どれほど楽曲に寄与していることかは、一聴瞭然なのに、

映画を観るのは、ビートルズマニアだ、といった決めつけがあるから、こうなってしまうんだろうが、

なんとも敬意に欠ける、とはこのこと。

その腹いせにと、

ビリーの作った『You Are So Beautiful』(1974発表)を、ケニー ランキンがカヴァーでしているやつを聴いている。

では。

タランティーノで盛り上がる。

ことの発端は、

アベちゃん(仮称、職場の同僚)が、最近、

西洋美術館(上野の)で、モネ展を観た、というお話。

これが、マネ展だったら、きっと、僕も上京したことだろう。

額縁に入れて鑑賞される西洋絵画が、

リアルタイム(同時代的に)で、日本に紹介された始まりは、

印象派と呼ばれるパリ発のムーヴメントの頃だった、と思っている。

けれどその事情が、多くの才能を、乱暴に〈印象派〉でくくってしまった功罪は大きくて、

おかげで、

日本ではいまだに、マネもモネも、しまいには、ゴッホでさえも印象派と一緒くたに考えられているのでは?……

さて。

ところが、話が、なぜか途中から、

クエンティン タランティーノ監督『パルプフィクション』(米映画、1994年日本公開)に移っていって、

アベちゃんも僕も、この作品を、きわめて高く評価する姿勢で一致するとは。

トラボルタが、ボスの愛人(ユマ サーマン)につき合ってダンスを踊るシーンね、

あれのどこがいいのかわからん、凡庸な、という点でも話が嚙み合ってしまう。

むしろ。

ブルース ウイリスが、裏切ったギャングのボスに遭遇してしまう場面や、

殺害の前に、ギャング(サミュエル L ジャクスン)が聖書の一節を唱える場面、そのほうが観るに値する名シーンでしょう、とか。

アベちゃんによれば、

タランティーノ物では、『ワンス アポン ア イン ハリウッド』(2019年公開)も必見なんだそうで、(僕は観ていない)

― でも、あれは 6年も昔の作品です、と言うから、

― 君の人生からすれば、その3分の1に相当するから遠い過去かも知れんが、

その10倍も生きてきた僕からは、ごく最近の作だよ、としておいた。

ところで。

とある決まった部屋(密室的な舞台設定)の中、俳優がそこに出たり入ったり、

そして、ほとんど意味もないモノローグ(独白)に、意思疎通も欲せずに、解決も願わずに、えんえんと浸る。

こういった脚本の作り手であるタランティーノは、まさに、

アントン チェーホフ(1860~1904、ロシアの劇作家、小説家) の、

当世における、正統なる後継者、と考えていいのではあるまいか。

逆からみれば、そこにチェーホフの現代性が存する、と。

では。

ついに刑事物に開眼。

刑事コロンボを観ていた家人が、

― 『相棒』より、ずっと面白いじゃん、とおっしゃった。

それはそうでしょうとも。

放送されたのは、『二枚のドガの絵』(初期シリーズ第6話、1971年)。

僕の中のランキングでは、ベストスリーのひとつですから。

ドガの絵に付着した指紋。

しかも、それが誰の指紋だったのかが、ラスト大逆転幕の〈鍵〉、

というシナリオの素晴らしさ、ったらない。

舞台道具にカネはかけないが、シナリオには 頭脳のありったけを投入する製作ポリシーってやつだ。

舞台道具にも脚本にもお手軽な、相〇と比較するなど、

コロンボに失礼ってもんでしょうよ。

……ところで。

どんでん返しのラストまで、家人がちゃんと観たのかを、確かめねば。

では。

K君へのアンサー ムーヴィー。

数日前。

親友のK君から、年末の挨拶が送られてきた。

僕は、年賀状をやめてしまって 3年ほど経つから、

彼は、気をつかってショートメールにしたのだろう。

……今年も一年、お世話になりました。(中略) 実は、今日のN〇K BSで黒澤 明の「椿 三十郎」を観ました。面白かったです! 原作は山本 周五郎。あぁ、ヒューマニズム!  でも、いいですねぇ、素朴なヒューマニズム。
齢ですかねぇ、こんな世の中、そんな小さなことにたまらなく惹かれます……。

……こちらこそ、果たしてないお約束もあったりで、いろいろお世話になりました。
椿 三十郎ですか、みづから押し入れに入る小林 桂樹はいい味ですね。
ラストの決闘シーンで、三船が、左手で小刀を抜いて(仲代 達也を)斬り上げる殺陣は見事でした。ご家族ともどもご自愛を……と返しておいた。

年末年始は、少したまった不燃ゴミを処分するのと、

子どもの帰省と会食の準備くらいで済まし、特段のことはしない。

ありがたいことに、公私ともに忘新年会は、一切なし。

勤務も通常ローテーションどおりだから、

食事も睡眠もフツーに摂って、つまらんTV番組は、駅伝含め、もちろん避ける。

いまさら、あたらしい決心も要しない……、そういふのがベスト。

ただ、ひとつだけ。

K君へのアンサーとして、ヒューマニズム映画をひとつ。

『真昼の決闘』(原題 High Noon、1952年米国)が想い出されたのだ。

……結婚式の日、円満退職して街を出ようとした保安官夫妻に、降って湧いた災難。

ウィル ケイン(ゲーリークーパー演ずる保安官の名前)に復讐を誓ったギャングが、この街に正午(ハイヌーン)に着いて、ケインに報復をおこなう、という。

保安官は、町民に、加勢して抗戦するように説得にまわるが、誰ひとりとしてそれに応ぜず(たったひとりの少年をのぞいては)、

新妻は、クエーカー教徒の信条ゆえに武器を執らない……。

初老(50歳を過ぎたあたり、クーパーの実年齢も)のケインはひとり、 4人のならず者に立ち向かっていく……。

話し出すとキリがありませんが、この作品は、以降の、アメリカンヒーローの典型を創った。

その条件とは、ふたつ。

ひとつ、意志をふるって孤立無念の戦いに挑む

ふたつめ、〈陰り〉(=弱点)を持った個性である。

たとえば。

真昼の決闘から、ちょうど 30年して世に出た、

『評決』(1982年 米国)は、その典型的ヒーローを、法廷で魅せた物語。

今は落ちぶれて、アルコール依存症の弁護士を演ずるポール ニューマンは、
この時、57歳だった。

すくなくとも米国映画のヒーローは、この先も、この美点を踏襲するに違いない。

さて、お楽しみの動画は、真昼の決闘のエンディング。

クーパーが保安官バッジを棄てるところは、20年後に、クリント イーストウッドが、『ダーティハリー』で、もっと派手にやって魅せたなぁ。

では。