惰弱を演ずる力。

惰弱(だじゃく)。

辞書をひくと、

〈意気地がないこと〉〈決心がつかず意思が弱いこと〉〈体力が弱いこと〉。

ま、好印象の文脈中では、決して使われないけれど、

一般的に流通している価値や評価について、うじうじと

まづは疑ってかかる僕にとっては、それほど嫌な言葉でもない。

80数年前、日本人全体が惰弱であったならば、あのように大風呂敷をひろげた戦いには没入しなかったろう。

その民に、敵への投降を禁じ、死ぬ決意を強要するような国家は、百害あって一利なしであるから、

いっそ滅びてしまうほうがよい。

事実、1945年8月15日に、それまでの日本は、ある部分で滅びた。

けれど、その滅び方が、他者、すなわち、主に米国都合だったがゆえに、

その滅亡をキチンと評価できず、いまもその後遺症で悩んでいる。

いや、その悩みを感じていないことのほうが、たちが悪い。

……横道に逸れた。

ジョー氏に、ポール ニューマンの出演作で、お薦めはある?、と訊かれた。

彼、〈ハスラー〉を観て、この男優に開眼したらしい。

― そうねぇ、〈評決〉〈明日に向かって撃て〉あたりかな、と応えたが、

翌日になって、〈スラップショット〉を追加した。

ほんらいならば、〈スティング〉を推すべきだったか。

どれを観ても、それほどハズレはないだろう。

彼は、逞しさ、と同時に、〈惰弱〉を、いとも自然に、スマートに演じられる役者なので、僕は好きだ。

秋(あるいは冬?)の陽光が差し込む法廷で、

陪審員に向かっておこなう、弁護士としての最終弁論の場面は、秀逸。(評決)

そうだ。

あの作品は、やはり、この季節に観ないといけない。

と、我ながら、わけのわからんことを言っている。

では。

春の雪に,無題。

今朝は、春の雪。

2月28日の夜に。

友人からショートメールが入っていた。

ジーン ハックマン亡くなりましたね。エネミーラインや、ポパイ渋かったです。

〈フレンチコネクション〉(1971年 米映画)で演じた、

ニューヨーク市警察の麻薬課のドイル刑事。そのあだ名が、ポパイでした。

好漢、悪漢、どちらも上手くこなせる俳優だった。

さらに他の作品を、いくらでもとめどなく、引き合いに出したくなるけれど、ここは我慢して、

フレンチコネクションでは、相棒のロッソ刑事役を演った、ロイ シャイダー(1932~2008)が、良かった。

あだ名が、クラウディ(cloudy)なんで、その性格が〈暗い〉。

クラウディが、颯爽としたアメリカントラディショナルの着こなしで、

ポパイの強引な捜査に嫌々ながら(憂鬱に)つき合う、ってところがなんとも味があった。

(コンビを組む刑事物のはしりでもあったか)

ロイ シャイダーは、

後年の、ジョーズ(1975年)の警察署長、マラソンマン(1976年)での実業家(ダスティンホフマンの兄として) のほうが、世に有名かも知れない。

……と、ここまで書いて。

訃報に接しては、故人を偲ぶ自分に、少々ウンザリときてしまう。

存命であろうとなかろうと、

今の今だって、誰かに思いを馳せたり、できれば、その人のため時間を使わなければいけないのに……と。

ま、せっかくなんで。

おふたりのご冥福を祈りつつ、

フレンチコネクションから、車のロッカーパネル内に、密輸された麻薬を見つけ出すシェーケンスをご紹介します。

では。

なぜ,映画『Let It Be』(1970年公開)を評価しないのか?

その理由(わけ)を、ふたつ。

❶映画『A Hard Day’s Night』(1964年公開)は、
多忙な日々(Hard Days)を送るビートルズが、実録風に、彼ら自身を演じて魅せた、洒落たコメディだった。

当時の売れっ子アイドルがドタバタと画面を動き回る、とは言え、

白黒ということもあって、

『Saturday Night And Sunday Morning』(土曜の夜と日曜の朝、1960年英映画)に一脈通ずるような、シニカルな風刺が効いている良品。

僕の中では、これとの比較がどうしても頭をもたげる。

いくら、スタジオセッション(曲の作り込み)や、手短に演ってみせた公開演奏を描くにしてもですよ、

この後、名作アルバム『Abbey Road』(1969年秋発表)を創る力がある彼らなのだから、

見え透いたヤラセ、たわいもない会話やギャグ、そういったもので、音楽制作の仕事ぶりをうすめて見せるのは悪手だろう。

❷セッションに参加したビリー プレストン(1946~2006年) の、作品中における扱いが、あまりにも軽い。

ビリーのキーボード演奏の素晴らしさが、どれほど楽曲に寄与していることかは、一聴瞭然なのに、

映画を観るのは、ビートルズマニアだ、といった決めつけがあるから、こうなってしまうんだろうが、

なんとも敬意に欠ける、とはこのこと。

その腹いせにと、

ビリーの作った『You Are So Beautiful』(1974発表)を、ケニー ランキンがカヴァーでしているやつを聴いている。

では。

タランティーノで盛り上がる。

ことの発端は、

アベちゃん(仮称、職場の同僚)が、最近、

西洋美術館(上野の)で、モネ展を観た、というお話。

これが、マネ展だったら、きっと、僕も上京したことだろう。

額縁に入れて鑑賞される西洋絵画が、

リアルタイム(同時代的に)で、日本に紹介された始まりは、

印象派と呼ばれるパリ発のムーヴメントの頃だった、と思っている。

けれどその事情が、多くの才能を、乱暴に〈印象派〉でくくってしまった功罪は大きくて、

おかげで、

日本ではいまだに、マネもモネも、しまいには、ゴッホでさえも印象派と一緒くたに考えられているのでは?……

さて。

ところが、話が、なぜか途中から、

クエンティン タランティーノ監督『パルプフィクション』(米映画、1994年日本公開)に移っていって、

アベちゃんも僕も、この作品を、きわめて高く評価する姿勢で一致するとは。

トラボルタが、ボスの愛人(ユマ サーマン)につき合ってダンスを踊るシーンね、

あれのどこがいいのかわからん、凡庸な、という点でも話が嚙み合ってしまう。

むしろ。

ブルース ウイリスが、裏切ったギャングのボスに遭遇してしまう場面や、

殺害の前に、ギャング(サミュエル L ジャクスン)が聖書の一節を唱える場面、そのほうが観るに値する名シーンでしょう、とか。

アベちゃんによれば、

タランティーノ物では、『ワンス アポン ア イン ハリウッド』(2019年公開)も必見なんだそうで、(僕は観ていない)

― でも、あれは 6年も昔の作品です、と言うから、

― 君の人生からすれば、その3分の1に相当するから遠い過去かも知れんが、

その10倍も生きてきた僕からは、ごく最近の作だよ、としておいた。

ところで。

とある決まった部屋(密室的な舞台設定)の中、俳優がそこに出たり入ったり、

そして、ほとんど意味もないモノローグ(独白)に、意思疎通も欲せずに、解決も願わずに、えんえんと浸る。

こういった脚本の作り手であるタランティーノは、まさに、

アントン チェーホフ(1860~1904、ロシアの劇作家、小説家) の、

当世における、正統なる後継者、と考えていいのではあるまいか。

逆からみれば、そこにチェーホフの現代性が存する、と。

では。

ついに刑事物に開眼。

刑事コロンボを観ていた家人が、

― 『相棒』より、ずっと面白いじゃん、とおっしゃった。

それはそうでしょうとも。

放送されたのは、『二枚のドガの絵』(初期シリーズ第6話、1971年)。

僕の中のランキングでは、ベストスリーのひとつですから。

ドガの絵に付着した指紋。

しかも、それが誰の指紋だったのかが、ラスト大逆転幕の〈鍵〉、

というシナリオの素晴らしさ、ったらない。

舞台道具にカネはかけないが、シナリオには 頭脳のありったけを投入する製作ポリシーってやつだ。

舞台道具にも脚本にもお手軽な、相〇と比較するなど、

コロンボに失礼ってもんでしょうよ。

……ところで。

どんでん返しのラストまで、家人がちゃんと観たのかを、確かめねば。

では。