このブルースを 聴け 『東京流れもの』

ブルースとはどんな音楽か?、などと野暮な話は、一切いたしません。

これを聴けば、おおかた解かっていただける、というもの。

そう、藤 圭子こそは、世界に誇れるブルースシンガーだと信じて疑わない。

一生懸命ブルースをやろうとしているエリック クラプトンなんかよりは格段に巧くて、かつ迫力にまさる。

藤の場合、やろうと思わなくたって、らしさ を意識しなくたって、自然体がそのままブルースをつむぐ。

しかも、ほとんどの場合、元歌(本家版)より完成度が高い、となれば、カヴァーされたほうはさぞや居心地が悪かったに違いない。

ご本人はむしろ、『北国行きで』といったアップテンポな曲が好きだったのではないか、と思う。

生きていれば、この7月3日がやって来て、満69歳……か。

クラプトンに伴奏をさせて歌っている藤 圭子を夢想することがありますよ、ホントに。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (6/29 16:27)
たったの5つ違いだったのか。
たまたま、昨日スマホで聞いた「昭和の歌謡曲」。
藤圭子の歌の上手さ迫力は他の歌手とは別格だなと思った矢先の萬年さんのブログ、嬉しい限りです。
デビュー当時、その可憐な容姿と貧しさを背負った薄幸なイメージに引かれ、当時妹が持っていた雑誌「平凡」「明星」を持ち出し、彼女の記事を読み漁ったものです。
中学の修学旅行では、浅草国際劇場で「藤圭子ショウ」を観、自分で撮ったステージの上で歌う彼女の写真を机の上に飾ってました。
後年、不可解な行動そして不幸な亡くなりかたをして大変残念ですが、作家五木寛之氏をして「彼女の歌は演歌ではなく怨歌だ」と言わしめた彼女の歌声は、決して明るい面だけでは無かった昭和の時代と重なり、これからも私達の心に響き続けると思います。
では、また。

☞萬年より  (6/29 20:28)
〈怨歌〉とは巧い表現ですね。
とすると、水前寺 清子のは〈援歌〉か。
藤 圭子自身は、〈演歌〉、歌(物語)を演ずること、これを追求していたのかも。
これだけの危ういバランス、というのは、稀有な存在です。
では。

東京に、讃歌を。


よく考えてみたら、東京にだって、讃歌はいくつも捧げられてきた。

なぎら 健壱『葛飾にバッタを見た』(1974年発表) なんかは、そのひとつ。

かつて『悲惨な戦い』中で大いに茶化されたのに、今や、なぎらを使う某公共放送であるから、そのうち、年末の歌番組に、バッタを見たが歌われるかも知れない。

さて、本題。
1971年、はっぴいえんどは、消えゆく古き東京を惜しみながら、曲をひとつ仕上げた。

それが、『風をあつめて』(アルバム『風街ろまん』に収録)。

それから、半世紀経って、米国の若いミュージシャンがそのまま日本語!でカヴァーしてくれるとは……。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより   (6/19 6:19)
あ、見つけた
某放送局でたまに面白い番組を観ると、思わず「流石天下の○○K」と、メロディ付きで口ずさんでしまうのだが、その度、奥さんに睨まれる。出どころはそこだったのか、スッキリしました。
「葛飾にバッタ…」いいですね。初めて聞きました。あの映画の風景と重なり、また子供の頃、渡良瀬川の土手でバッタ取りに夢中だった頃を思い出し、なんとも懐かしい気持ちになりました。ありがとうございます。
では、また。

☞萬年より  (6/19 7:00)
長年の秘密のひとつが解決されて、なによりです。
決して、なぎら 健壱の才能を否定している訳ではなく、異端は異端であるからこそ多勢を堂々と撃てる、と言いたいわけです。
いぬいっちけーが、やたら異端をよいしょしてはいけません。それは他の者がやることでしょう。

今じゃ、撮り鉄?

昨夏だった.
平田の踏切でカメラを準備していた鉄道マニアの青年に、
―篠ノ井線で、鑑賞すべき車輌では何がおすすめですかね? と尋ねたところ、

―EF64形なんかを、狙いますね、僕ならば。という答え。

EF64、EF64……と唱えながら帰宅すると、インターネットで確かめた。

国鉄の路線が電気化される時代の、1964年に初投入された電気機関車か。
それが、いまでも現役で走っているとなれば、観る価値はある。

先日、南松本駅構内で、始動しているEF64を見かけたので、すかさず撮影したのが、この画像。
これから、横のタンク車列を牽引するのだ。

2連結のうち、先頭の1034号機は、1981年製造(おそらく)。
もう1機の、左の白い斜めストライプが入った塗装は〈大宮車輌所〉仕様。
2機ともに、JR貨物の愛知機関区に配備されている―というのが、お手軽に仕込んだウンチク。

でもね、カメラを手に線路沿いのフェンスにもたれてるなんて、萬年、もはや撮り鉄のひとりでは、ありませんか!

で、ブログからコメント欄が消えて不義理をしている つーさんには、この曲を捧げるのであります。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より
普通に付き合っていた人の態度が突然豹変する、そんな移り気な人を結構見てきた。
そういう人は、自分中心に物事を考える。人の話しは聞かない。感情に一貫性が無い。計算高い。自分の不遇を他人のせいにする。
そんな人との人間関係の修復は、まず不可能。
自分の事は棚に挙げ、遠くで汽笛を聞きながらそんな取り留めの無いことを考えています。
では、また。(6/13 16:28)

ニューヨークになれない者、

……それは、東京、というお話。

★ ニューヨークシティ (6/10 13:00現在の累計)

感染者                             205,011人
COVID-19による死者        17,255人
疑いのある死者            4,705人

★ 東京都 (6/10 18:30現在の累計)

感染者                              5,426人
COVID-19による死者           311人

何週間後には、東京は、今のニューヨークになる!、などといったお約束は実現せず、もちろん、そういうコピーで煽った連中は予測の不的中を謝るわけでもなく。
東京は、この先ずっと、ニューヨークの足許にも及ぶことができないとは……。

しかも、ニューヨークシティはスプリングスティーンから、セレナーデを捧げてもらえるのに、東京は、誰からも讃歌を与えられないのだ。

では。

『マリー ダーリン』(1981年) が好き。

アリスの楽曲の中では、この曲が、いちばん心に来る。

萬年、ゴイゴイと押し迫ってくるような曲調はどうも苦手。

となると、こういう歌に惹かれることになる……。

(『遠くで汽笛を聞きながら』(1976年)も 好きですがネ!)

題名については、ずっと疑問に思っている。
なぜ メアリー ダーリンとしなかったのか?、と。

堀内 孝雄だって、メアリー、と発音しているではありませんか?

では。