山雅らしさ、というゲーム。

たしか、25日の朝のこと。

家人が隣家へ出かけていって、中信エリアだけの新聞(読み終わったもの)をいただいて来た。

山雅の、鐵戸編成部長のインタビュウ記事が、お目当。

前日、京子さんからのメールでは、この記事について否定的な言及があったので興味が湧いたらしい。

おこぼれに預かって斜め読みした。

記者の執筆要旨が定まっていないことが(おそらく)原因で、記事の中身がちっとも腑に落ちないので困ってしまう。

ちょうど、毎朝15分やっている公共放送のドラマ主題歌、日本語で歌っているようなんだが、歌詞が頭の中で日本語として一向にたどれない、まさにあの感覚。

一体、どういう切り込みでマイクを向け、テッちゃんに何を言わせたかったのか?

どうやら〈山雅らしさ〉がキーワードらしいことはうかがえた。

スランプに陥った時におこなわれる、この確認作業。
山雅を取り巻く一帯では、キャッチコピーのごとく、ひんぱんに登場する。

  Gans  asks  What  makes  Yamaga   time  after  time.

山雅らしさ、が蒸し返されるのには、以前から食傷している。

それがいまや、自分探し、いや、あら探しのゲームの観ありで、笑える。

らしさ、の認定根拠はもっぱら、勝敗、順位という結果から導きだされるようだ。

となれば、ほとんどが情緒的な印象論ばかり。

数値としてのデータはほとんど示されない。

好不快、悦楽と落胆などの感情は否定しないけれど、その基準で仕事が一刀両断されるとしたら、ゲームをやってるほうは浮かばれないんじゃぁないか?

虹の彼方の理想郷、実は家に居た青い鳥、掬い取れない手桶の満月。
……、実体なき願望でないのか、自問するのもいいかもね。

ただ、このテーマについては、語れないこともなくて、らしさの根源はおそらく、〈後からやって来たアマチュア集団〉に在ることだけは確か。

たとえば、昨日リリースされた、2020年期 株式会社松本山雅の、最終的に黒字を確保した決算内容。

より詳細が公表されれば、そのやりくり上手に迫れるんでしょうが、流行り病の逆風下で、こういった通信簿を報告するところに、山雅らしさを観察できなくてどうするのか、とは思います。

では、また。

闘魂も 商魂も。

2019年に関するデータがある。

監査法人大手のデロイトトーマツが、毎年発表しているもの(最新版)。

J1チームの、スタジアム集客率(%) だ。

ホームスタジアムに、定員に対しどのくらい観客を集めたのかという数字。
第1位は、川崎フロンターレで、83.7%。(23,843人)
我が山雅は、第3位で、78.0%。(15,861人)

あぁ、こういう日の再来を、恋い焦がれるわけです。

グッズ関連利益額、というのもあって、
第1位は、浦和レッズで、3億6,100 万円。
山雅は、第9位の、1億2,600 万円。
リーグ平均が、1億2,700 万円なので、ちょうど平均値ぴったりだった。

たとえば、ジュビロ磐田(14位)は、6,800 万円。

必死に売り上げないと経営が成り立たない山雅と、それを当てにしなくともやっていける磐田の、クラブの在り方の違い、と言ってしまえばそれまでなんですがね。

チームは闘魂むきだしで戦い、クラブは商魂まる出しで売りまくる。

それが山雅の歩む道。

ところで、手ぬぐい製造販売の〈かまわぬ〉とコラボレーションした、手ぬぐいが近々に登場する。

絵と文字なんかを使って、松本山雅を織り込んである。


写真のは、かまわぬを、鎌、〇(輪)、ぬ といった絵や文字にくだいて文様に仕立てている。

洒落ているので以前から使っているが、お店でフツーに購うと、880 円也。

で、山雅オリジナルは、1,500 円。

Jリーグも版権使用の名目で、かなりピンハネしているはずだから、同様なものの市価の、約2倍になるのも当たり前か。

まぁ、今回、萬年は遠慮しておきますがね。

最後は、山雅愛とか言ってこんな曲で、失礼を。

では。

Bleached Fox と名づけてしまえ。

ヴァンフォーレ甲府戦でハットトリックをやって魅せた、
#14 フォワード 鈴木 国友。

リーグ得点ランキングで、5位タイになった。

DAZNで観た、ゲーム後インタビュウ。

ドローだったから、ヒーロー、とはいかないせいもあってか、遠慮がちで繊細な話しぶりだったが、人柄がにじんていて好感を持った。

ふと、春浅き朝、我が家のすぐ近くを、食物を探すようにして彷徨っていた、あの孤独な狐を想い出す。

〈Bleached Fox〉、僕の中では、国友君をそう呼ぼうか。

髪をなびかせ、嗅覚鋭くゴールを狙う狡猾さを磨け、という気持ち。

そしたら、こんな曲まで記憶に蘇える始末。

『Sister Golden Hair』は、America が、1975年に発表した。

では。

Joker は 後からやって来る。

幼児にとっての入門的なトランプ遊びは、ババ抜きだろう。

順繰りに、隣の人のカードを抜いていって、手に入れた中の、同じ数字のカードはセットにして捨ててよい。
そして、手持ちのカードが全部なくなると、その人は上がり。
早く上がった者から(勝ちの)順位を得て、最後までジョーカーを持っていたものが敗者。

で、突然、なぜこのゲームを〈ババ抜き〉というのか?と、ひどく気になりだした。

英語では、この遊びを、〈Old Maid〉と言う。

老嬢、あるいは、オールドミス(今では死語?) のことです。

かつては、クイーン(#12)、つまり、女王を 1枚抜いた 51枚でプレイしていて、最後に、クイーンを手許に残した者が敗者だった。

(女性が残れば負けよ、なんてのは、フェミニストの攻撃対象になってもおかしくないが、そういう話はいままで、萬年、寡聞にして聞かない)

なんだ、ゲームの方法を直訳して、婆抜き、としただけの話……。

その後いつしか、ジョーカーを1枚加えた、53枚で遊ぶようになったらしい。

今日、緊張感を味わうため、どれか1枚を抜き、ブラインドカードに仕立ててプレイすることがありますよね。

それを、ジジ抜き、とも呼ぶ。

けれど、発生史に忠実であろうとすれば、キング(#13)を抜いてこそ、ジジ抜き、でありしょう。

ところで、途中投入されてゲームの様相を変えてしまうような実力派(切り札)を、ジョーカーと呼ぶことがある。

本日のヴァンフォーレ戦、ジョーカーが出現すれば嬉しいが、まづは先発メンバーで、ゲームをこちらへと、たぐりよせなければ、ね。

では。

天国と地獄 その続き…… 『Hotel California』

4/12の記事中、This world Can be A Heaven、みたいな願いを記したついでの、今日のお話です。

天国と地獄、と聞けば、黒澤 明による、1963年公開の映画を想い出すお方もいらっしゃるに違いない。

仲代 達也(警部)ら捜査陣と、山崎 努(誘拐犯)の知力を尽くした対決。
特急こだま(新幹線はまだ走っていない)車内、まるで素人っぽく揺れたカメラ撮影でもたらした緊迫感。
あんた(被害者)の住んでる高台の邸宅はまるで天国、それに比べ、俺の住む処は地獄のようなもんだよ、と誘拐犯は、脅迫の電話口でつぶやく……。

つい脱線しました。

1976年に、イーグルスが発表した『Hotel California』には、

And I was thinking to myself “This could be heaven and this could be hell”
〈ここは天国かもしれないし、地獄でもあるかもな、と僕は自分に訊ねたんだ〉……の一節がある。

砂漠の、暗いハイウェイを走っていたら、遠くに煮えたぎったような光を見た。近づいてみると、そこは、ホテル カリフォルニア。
女に案内されて進んでいくと、多くの住人たちと無数の部屋。
ようこそ、ホテルカリフォルニアへ。
1969年以来、ここには酒を置いてないけれど、素敵な人々、愛すべき場所。
チェックアウトはいつでもどうぞ、けれど、あなたは出ていけない。

暗喩がちりばめられた謎解きを強いるような歌詞が続くのは、ドン マクリーンの『American Pie』(1971年)と似ていて、これこそ、クラシカルロックが生み出したおとぎ話たち、とも言えましょうか。

でも、歌詞の解き明かしは、つまるところ、解釈者の素養の浅薄が見え透いてくるばかり。
ゆえに、あまり相手にしないようがよろしいかと。

この曲であれば、不思議な歌詞をそのままに、荒涼な寂寥感を楽しめば、それでいいんでは?

では。