5月1日のルーティン。

『The First Of May』(1969年発表 by ビージーズ)を、

今日、引っ張り出してくるのを、

僕が、このブログを書いている限りは、もう、ならわしにしてしまおう。

……幼い頃の想い出は、小さくなって遠ざかり、

時は、いつか、僕らを通り過ぎていって、

僕らは、互いに離れてしまったけれど、

あの日、君の頬にくちづけた、あの恋はホンモノだったんだ……

子ども時代に見た、あの深く大きな川。

それが、いま訪れてみると、ホンの小川に過ぎない。

そんな、経験は、ないだろうか。

時間の経過と、自分の成長にともなって、いつしか消え去った昔。

けれど、あの幼い恋心は、いまだって私のこころに息づく……そんな歌詞。

たまたま、今日。

数箇月の入院生活のままに、

友人のひとりが帰らぬ途を行ってしまったことを知ったので、

時と人の過ぎ去るのを、いつもよりも深く感じている。

では。

Fly Like An Eagle (1976年)

ふた月まえにも、

スティーヴ ミラー作の曲を採りあげたけれど、

今回は。

ひと月ほど前に、彼自身が出演している動画が公開されているので、ご紹介。

曲の題名は、和訳すると、

〈鷲のように飛んでいく〉

……時間は、未来に向かって滑り込んでいる、まったく絶え間なく、だ。

鷲のように飛んでいきたい 海へと。

鷲のように飛んでいきたい 俺の魂のままに 自分を運ばせて。

鷲のように飛んでいきたい そして、自由になるところまで。

神よ、革命をとおり超すんだ。

満足に食べていない幼な児には 食物を

裸足のままの子らには 靴を

露頭に生きる者たちには 家を

それが、解決ってもんだろう……

ブルースミュージックの根っこでもって、

こういう宇宙論的な不思議さを、押しつけるでもなく奏でるのは、

ミラー氏の独特な音楽観か。

それが、半世紀経っても変わっていないのが、実に良い。

では。

中央フリーウェイだって?

なにかの会話の折だった。

モモ氏が、

― 『中央フリーウェイ』ってさ、まだ荒井 由実だった頃の曲だよね。

実は、すこし前、

モモ氏は、〈由実〉であって、〈由美〉じゃあないんだよね~、とずいぶん意外だったように話してたことがあるんだけれど、

それなりに、お気に入りの歌い手なのだろう。

傍らにいたヴァン氏が、それを聞くと、

―  あの競馬場とビール工場はねぇ、と会話に加わってきたりする。

いずれにせよ、荒井、とか言っている時点で、もはや旧々世代なのですよ、僕らは。

ところで、

ここだけの話(内緒です)、中央フリーウェイを、僕は、あまり評価していない。

とにかく、歌詞が説明的過ぎるし、こなれた日本語でないし、旋律にも惹かれない。

首都高新宿4号線から、高井戸を抜けて八王子に向かう、あの爽快な感じはおおいに共感するけれど。

ならば。

あのドライブ感覚に近しい、味わいのある曲として、

デヴィッド べノアの『Searching For June 』(6月を探して)など、おススメ。

これだと、陽光の下、ではなく、夜のドライヴになりますが。

では。

『桜坂』は名曲なのに……。

昔々。

ただ〈花〉といえば、梅(日本の古来種)であったものが、

平安末期ごろには、それが、桜(外来した)に置き換わったと、どこかで読んだおぼえがある。

この変移、僕の説によれば。

見応えのある梅になるには、かなり頻繁、丁寧な剪定を要する。

対し、桜は、自然のままに放っておいても、それなりの樹形と隆盛を誇る、というのが、その真相で、

ゆえに、全国的に、桜の樹がはびこることとなった。

日本人には、(特定の庭園をのぞけば) コマメな樹木管理の思想などなかった、樹木には〈霊〉が宿る、という信念とあいまって。

……さて。

家人は、福山 雅治を好まない、という理由だけで、

『桜坂』を聴こうとしない(ようにみえる)。

逆な観方をするならば、

この曲は、つねに、福山雅治の、という形容詞がセットになって大衆に受容されている、ということなんだろうね。

どなたか、翻訳の名手が、こなれて気の効いた英語にしてくれたならば、

『SUKIYAKI』(上を向いて歩こう)くらいの発信力、訴求力を持った名曲に思えるのです。

ま。

オフコースの諸作品も同じような境遇にあって、

双方ともに、味わう側の心情において、作り手からなかなか独立しないのは、まことに惜しい。

では。