インターネット時代ゆえの孤立、

というか、蚊帳の外に身を置く、といった趣きのお話。

東京へ行って電車に乗ったりすると、車中の約9割くらいは、

思いつめたような顔で、じっとスマフォに見入っている、あの有り様。

僕にとっては、ほんと、ゾッとする光景で、

こういう景色に囲まれる日常ならば、すぐに、そこから降りてしまいたくなる。

といっても、ウェブでつながる世界からは、恩恵も得ているので、ますます逃げ出せなくもなる。

新聞は止めて久しく、週刊/月刊誌には、最近とんとご無沙汰。

給油待ちのガスステーションの待合で、手に取るばかり。

TV画面にしたって、出勤前の、時計代わりにぼうっと見るくらい。

他方。

日々起こる出来事を、丹念にインターネット上で捕捉しようともしない。

おかげで、小澤 征爾氏のご逝去を、一週間ほど経ってから、知った。

個人的なつき合いもない御方なので、訃報を逃がして日を重ねても、別にどうってこともないけれど、

小澤氏が、松本の街を本拠に、ずっと定期的な公演を持ってくれたおかげで、

ふさわしい会場としての、市民芸術館も成ったわけだから、

あれだけの、にぎにぎしい新体制発表会を観られることについては、

山雅ファン&サポーターとして、

氏に、深く感謝しなければならない、と思う。

享年88。

ご冥福をお祈りします。

なにか曲を、

で、ブルーベックとデズモンドによる演奏。(jazzです)

鳩が、青く見える、からの、タイトルなのかしら?

では。

くどくて,さわやかな曲。

英語 helpless とは?

help (助け) が less (無い、期待できない)、なので、

どうしようもない、お手上げ、孤立無援、やるせない……、そんな時に使うんでしょうか?

(☞ ただし、ネイティヴスピーカーには訊いていません)

この言葉が、曲中で、バックコーラスを含め、55回繰り返されるのが、

『Helpless』(1970年発表)。

クロスビー,ステルス,ナッシュ & ヤング(4人のグループ)のアルバム『デ ジャブ』が初出。

ニール ヤングの,作詞作曲。

……ノースオンタリオには、街がひとつ在って

 うっとりさせる 夢や 記憶が詰まっている。

いまだに 行きたくなる場所なんだな 僕の中で

だって 僕の変化は そこで起こったんだから。

真っ青な窓に  星々がきらめくと

黄色い月が 昇ってくる

でっかい鳥が 空を横切って飛んで

その陰が 僕らのうえに 落ちる

やるせない やるせない  あぁ どうしようもなく。

僕のいうことが 聞こえるかい?

鎖がしっかりと絡まって ドアは閉ざされている。

さぁ 一緒に 歌おうか?

ひたすら やるせない と……。

その2年前、日本では、『悲しくてやりきれない』を、

フォーク クルセダーズが歌い出した。

といっても、僕は、安易に〈同時代論〉など持ち出さない。

ま、偶然似たような曲が相次いだ、そんなこと。

今回は、作者 ニール ヤングご本人の独唱独演で。(1993年の)

では。

身勝手な拡大解釈は,マズイです。

凡そ、文学、絵画、音楽などの作品は、いったん作り手を離れてしまえば、鑑賞する側の特権で、自由に味わえる。

むしろ、創った側の説明などは、うるさくて、不要。

だから、美術展で、解説用のイヤホンを借りて会場を回っている御仁を見るたび、

急ぎ情報を仕込んでいる、にしたって、

せっかく〈画〉そのものに打たれたくて来ているのに、

余計な雑音で、感嘆の眼を曇らしてどうするの?、と思う。

が、しかし。

或る楽曲を、あんまりに身勝手に解釈していることもあって、

おいおい、それは違う、という例を、ひとつ挙げておきます。

早い話が、外国語(ここでは英語)を、日本語に直すにおいて、かなり素養が足りないゆえの、誤訳かな。

〈I Shall Be Released〉は、ボブ ディランが 作った曲(1967年中に)。

ザ バンドの歌唱(演奏)によって名声を得て、多くカヴァーされてきた。

歌詞(英語)をたどれば、これは、

冤罪で刑務所に入っている男の、プロテストそのもの。

たとえば、映画『ショーシャンクの救い』(邦題☞ショーシャンクの空に、1994年公開、米)の、無実の罪で 20年間監獄に居た主人公、そんな境遇が思い浮かぶ。

実際、世には多くあるに違いない冤罪のひとつを訴えようと、ディランが作った。

歌詞の冒頭……(萬年訳出)

とって代わらぬものなどない

行く手は 短くはない とは聞くが

俺は 忘れはしない

ここ(牢獄)に 俺をぶち込んだすべての奴ら、その顔ひとつひとつを。

おれの光がやってくる

西から 東へと向かって

そうさ、俺は釈放されるべきだ

すぐにでも   ただちに

英語は詳しくないけれど、shall、という言葉に、道義的に強い意思が込められていることだけはわかります。

この歌が描く情景を、表現したかったがために、

(ザ バンドで) ヴォーカルを担当したリチャード マニュエルは、、喉から絞り出すようなファルセットを、歌唱法として採ったのです。

結論。

いくら、美しいメロディーラインであろうとも、

漠然とした日常の不自由さ、束縛感。

そういったものからの解放、といったような、

甘え切った心情の表現としては、この楽曲を聴けない。

では。

心に喪章を。

― 八代 亜紀さんも、死んじゃったわね……。

すれ違いざま、家人が、ふと口にするものだから、

― 僕なぞ、ここ一週間、心に喪章を巻いているんですよ。

と言いかけて、その言葉を飲み込んでしまった。

八代 亜紀 (1950年~2023年12月30日)。

個人的にご一緒したこともないから、本当のところはわかりませぬが、

伴侶にするにはチト濃すぎるけれど、あんな姉貴がいたら面白い、といった感じを上手く演出していたように思う。

ここ10年、へぇ、この人ジャズにチャレンジしているんだ、とは知っていた。

You’d Be So Nice To Come Home To はヘレン メリル (1930~ ) の、ねちっこい歌唱が、大定番の曲。

亜紀さんが、それを採りあげているのを聴いたことがあって、これもいいけど、もっとサラリとやれば?、とか思ったりしたが、

タイトルの You’d は、You would の略で、〈あなたがわたしの処に来てくれたら〉と、

仮定の助動詞を使って、切望、哀願ともいえる伴侶への思ひを吐露するから、サラリと歌うのは、チト違うか。

ヘレンよりも、(少なくとも) 20歳若くして逝った彼女を、セロニアス・モンク作のバラッド〈Round Midnight〉で送ろう。

ご冥福をお祈りします。

では。

人がらで聴く歌 (Mr.Bojangles)

なにかにつけて、

お気に入りのものに囲まれて暮らせ、とまるで強制するような風潮を、いたるところに感じている。

趣味性も、それにあまりにこだわると、窒息してしまわないか?

いい意味で、物心に執着せず、いつでも死ねる、それが最高かなぁ。

でも、たまには、そこでゆっくりできる曲でも聴きたい、とも思う。

『ミスタ ボージャングルス』(Mr. Bojangles、1968年発表)は、

ジェリー ジェフ ウオーカー(1942~2020,米) の作詞作曲による。

……僕(ジェリー)は、公然酩酊罪で、ニューオーリンズの刑務所に収監された。

まいってた時期、1965年の頃。

この時、本名は伏せ、ボージャングルス(往年の名タップダンサー) と名乗る白人の大道芸人を知った。

監房の囚人たちの、人生なんかの会話が続いて、

ボージャングルスが、20年前昔に、15年間一緒に旅した愛犬を亡くしたことを語ると、空気が暗くなった。

すると、誰かが、場を明るくしようとして、言ったんだ、

ボージャングルス、踊れよ!

ボージャングルス、踊れ。

白髪、ボロのようなシャツ、だぶついたズボン、そして、擦り切れたシューズ。

それをまとって、ボージャングルスは、それは高く跳んで、タップを踏んだんだ……。

ざっと、こういった歌詞。

これを、飾り気もなく、衒いもなく、ギターひとつ抱え、作者自身が歌う。

哀切なワルツ……。

もう、これ以上、言葉は要らないや。

では。