ふたたび 鳥類 vs 女類。

―また、今日もひとつ ! 、と家人。


いちじく(無花果)の樹になった実を、鳥が来てついばんでいる、と嘆く。

野生の敏感は、人類の始祖が前を隠した大きな葉陰の果実をも見逃さない。

たしか昨年のいまごろも、同じように憂いていたっけ。

それを収穫して生計を立てているわけでもないから、とは思うが、実ったものは、ひとつでも惜しくなるらしい。

年を追うごとに実は立派に成るから、なおさらか。

先手を取っていくつかもいだが、いまだ未成熟だったようで、家の中で熟すのを見守る覚悟。

バナナじゃあるまいし、と思ったけれど、どうも追熟はなかなか難しい模様。

―こうなったら、来年は(樹全体を)ネットかなんかで覆わなきゃ、と息巻いている。

裏庭における収穫闘争は、いましばらく続きそうだが、どちらに軍配が挙がったにせよ、自然の恵みを独占する仕業はあまり感心しない。

あれほど長期間、地球を占有した(と科学者は主張する) 恐竜でさえも、(200万年かけて)滅亡したそうだから、ひとつの類が地上を支配し続けるなんてことはあり得ない。

その恐竜の末裔である鳥類と、女類の覇権争いを、出来るならば我関せずにいたいと願う、この頃。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/13 15:04)
支配される振りして 妻を支配して
長雨のせいか、今年の果物は甘さが足りないようだが、我が家でも先日戴いた桃が程よく熟成するのを待っている。
長年の観察と経験から、女性は確かに独占欲が強いように思う。
男としては、人間的に程よく熟成した女性に独占されるのは、いたって心地よいものであるが、
最近では明らかに熟しすぎた我が身内、その独占欲はいつの間にか支配欲に変わってしまったようだ。
では、また。

☞萬年より (8/13  15:30)
アリストテレスは、
絶対的権力は、絶対的に腐敗する、と言っています。
ですから、絶対的に限りなく近いけれども、絶対的でない支配。
そういう境地をめざすべきでしょう。 
いや、絶対的でない隷属、と言うべきでしょうか。

意味なきルーチン は聞き飽きた

感染者が何人、という事実は、それを淡々と知れば良い。

どこにいったら、統計的な数字を確認できるのかがわかっていれば十分。

やれ最多とか、連続何日とか、煽るような形容詞はそろそろ止めにしないか。

国民もそれほど阿呆じゃないから、数字の羅列ばかりが続くと、お上や報道の上っ面なのが透けてきてウンザリだ。

感染者数を数えているステージはとうに過ぎて、もっと深い分析によって僕たちの生活の方向を探さなければいけない。

……似たようなことは、数日前に、専門家が発言したらしいが。

感染者数の意味することと、目標から導かれる対策、それを知りたい。

対策といっても、家庭と社会生活の決まり事を超える高度な内容だ。

民の理解力をナメてはいけない。

この数字でいけば、医療体制がどうなるのか、集団感染を突き止めてつぶす今のやり方の有効度はどうなのか、どこに流行り病と生活の調和点を置くか等々。

国として、COVID-19を、いかほどの病として定義するのか?
季節性インフルエンザと重篤性をどのように分けて考えるのか?

重症化がある程度抑えられていれば、一定の感染推移を、社会戦略として許容せざるを得ない、という考えだってありだ。

感染数が少ないに越したことはない、というのはもはや答えにもならぬ。

そこまでを突っ込んで、地方政府はキチンと発信すること。
感染状況の感想で終わるような今の会見は、リーダーの無能オンパレードではないか。

いよいよ困ったら、非常事態宣言を持ち出してくる?

国民の自発的な自粛意識に頼るしか手がないのならば、その前に、事実分析に基づいた戦略と戦術の説明をしっかりしてくれよ。

これが病災だからまだしも、次は砲弾が飛んでくる厄災だってあり得るんだから。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/10 15:46)
我が青春の呻きを聞け。
今から45年ほど前、高校3年の秋季体育祭での話。
大変暑い日だった。体育祭終了後、生徒達は校庭の隅にある水道の蛇口に殺到した。翌日から腹痛、下痢で休む生徒が続出した。原因は赤痢であった。地域の人に伝染させないため休校の措置はとられず、普段通りの授業となった。その合間に、1日2回保健室で検査となる。保健室でパンツを下ろし、前屈みの姿勢をとらされ両手で肛門を拡げる。不埒にも、クラスの女の子もあんな格好をさせられるのかと妄想したこと、若気のいたりとお許し願いたい。そこでの検査で陽性となると即、隔離病棟へと、連れていかれた。(今は隔離はない)
検査は、ガラス棒を肛門におもむろに差し込まれると言うものだった。すると思わず「あっ」と呻き声が出てしまう。情けない限りである。
私は感染を免れたが、その後秋は深まり冬を迎え、翌春、東京に出て本格的に大人の階段を昇り始めるのである。
では、また。

☞萬年より  (8/10 17:30)
青春時代とは、アッケラカンというのは稀で、むしろ暗鬱なものですが、それにしても、すざまじい集団感染でしたね。
上水は、次亜塩素で殺菌してあって、蛇口から出る水質は自治体で保証してあるはずですが、もしや、井水だったんでしょうか。
貴重というべきご体験かと存じます。

心地よく働くのは、

なかなか無理です、というお話。

どこかに自分に適した仕事が在る、というのは幻想で、ダブダブの制服にやがて身体が馴染むように、自分が仕事に見合うようになるのだ。

責任とか貢献にフォーカスしないと、まるで仕事=人間関係の、荒廃した職場になるが、それでも、心を奮い立たせる。

―こんなことは当たり前過ぎるので、誰もあえて口にしない。

だから世の中は、将来の夢、とかでことさら若い魂をアオるな。

その道を究めた人、みたいな老爺が出て来て、これが自分の天職、とか述懐するインタビュウをみる。

これは、他の道を切り捨てて一点集中でなんとかたどり着いた感慨に過ぎない。

仕事にも馴れてきて、余裕を持って臨める、つまり、ルーチンが居心地よくなる時期が、きっと来る。

そしたら、ほんのちょっとでも、より高い視点、深い角度から仕事をしようと自分を駆りたてられるか。

仕事の選択よりも、そういう習慣を身につけることのほうが大切だ。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/8 16:38)
人生堪える事が肝要。
全く同感です。新しい仕事についたら先ずは我慢そして努力、それを続ければ必ず廻りが自分を認めてくれる日がやって来る。そして、仕事の面白さも見えてくる。そうなればしめたものだ。
しかし、世の中見えたつもりが実は全く見えてなかったと言うことがある。恋愛の末の結婚がそうだ。一緒に暮らし始め、さほど時を経ずして、恋愛の影に隠れて見えなかったものがあるのに気が付く。が、時は既に遅し、婚姻届は出してしまったし、逃げ出すわけにもいかない。諦めて生きるか…。自分の蒔いた種は自分で刈るしかない。
しかし、そんなに悲観する事はない。20年乃至は30年我慢すれば良いのだ。そうすれば、世間からおしどり夫婦なんて呼ばれるようになる。
もちろん、結婚当初からうまくいく夫婦も沢山いる。
かく言う我が家もそんな夫婦だ。
では、また。

取ってつけた言葉、腑に落ちる言葉。


日曜日の朝8時から、西田佐知子の亭主が司会をやってるTV番組がある。

ある時、政治に関するトピックのところで、中西 哲生(サッカー解説者)に司会が意見を求め、それに対し、中西も臆することなくコメントしていた。

おいおい、それは、武田 鉄矢に対し教育について語れ、と問うに等しいくらいの暴挙だろう。

コメンテーターとは、すべてのトピックについてかならず発言しなきゃならない仕事らしい。

自分はスポーツ解説者だから、このトピックについてコメントするほどの見識はありません、と辞退することもできないとは……。

さて、朝鮮日報は、南韓の右派メディア。
(たとえば、漢字復活を提唱している)

その記事(日本語版)に、そうだよなぁ、と感心した言葉が載ったので、そのまま転記する。

死はそれまでの人生の総括だ。どのように死ぬのかを見れば、どう生きたのかがわかる。まともに死ぬためには正しく生きなければならない。
公的にみて朴元淳の人生は偽善的で破廉恥だ。彼が『清廉な人間』ならば、決してこんな結末になるはずはない by 張 琪杓

※7月9日、みづから命を絶ったソウル市長。政権与党は清廉な人物とのキャンペーンに忙しい。

かなり厳しい言葉。
けれど、主義や信条を越えた、爽快さに打たれてしまう。

周囲に臆することなく正々堂々とモノを言う人が、だんだん少なくなった。

もちろん、SNSの匿名性に隠れて言いたい放題なのは、論外。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/2 23:33)
私の目標とする逝き方。
医者が患者にかなり状態が悪い事、そして後1ヶ月持つかどうかと告げている。
私と私の妻は青ざめて聞いていたが、当の本人は表情ひとつ変わらない。
医者が病室を出た途端「おい○○や、そこの本取ってくれや」
いたって普通の口調である。
その本は、安曇族のルーツを探ると言ったような本だった。
ベッドの周りは、新聞、雑誌、本が山積みだ。
それから、一月後寝ているのかと思ったら亡くなっていた。
死ぬ直前まで、自分の生きる姿勢を崩さなかった義理の父。
そんな義父も一年前、彼の飼い犬が私の家で亡くなった時は号泣していた。
私もそんな死に方が出来たらと、思うが、人間の大きさが違いすぎる。
はてさて、どうなることやら。
急がずその時を待つとしよう。
では、また。

となりの芝生……。

家人が、近くのDIY店で芝生の目土 を選んでいたら、
或るご夫婦が近づいて来て、こう尋ねた。

―どうも、うちの芝生は育ちが悪くていけません。
なにか良いやり方でもありますかねぇ?

―そうですか。
とかく隣の芝は青くみえる、って言いますからね。

なかなか気の利いた受け答えだったではありませんか、とホメておいた。

でも、そのご当人が今度は、助手席から近所のお宅の芝を盛んに品評するんですね。

他者のことがなにかと気にかかる習わし。

これを棄て去るのはむづかしい。

で、先日、一緒に買い物にでかけた時のこと。

―いま、ひとつ閃きました!

隣の芝生は青く、隣のレジは早く流れる、これなんか実感でしょう?

ただし、残念ながら、この格言、家人には響かない。

なぜか?

スピーディーなレジ係を見究める眼力には相当な自信を持っていらっしゃって、常にそこに並ぶからだ。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より (7/30 16:25)
急ぐその先にあるもの。