信州の女は そっと逃げ


先日、車検費用を支払うため、整備工場に立ち寄った際のこと。

―向かいの洋菓子屋さんを、チョッと(初めて)のぞいてくるからネ、と言い残して、家人がいなくなる。

前々から気になっていたお店なんだろう。

で、1分経つか経たないか、まだ会計も済まないうちに、戻って来た。

やけに、早いご帰還なことで、と言おうとした先に、

―お値段がね、もうっ、高過ぎて!
お店の人がショーケースの向こうでかがんでいるのをさいわい、声もかけずにそのまま出て来ちゃったわ。

思うに、想定の三倍を超えるような価格で並んでいたに違いない。

―あのね、大阪あたりのご婦人が三人あつまれば、この品物をいかに安価で手に入れたか、という自慢話になるわけ。
これが東京になると、価格はあからさまにしないでおいて、それなりに高価な買い物であったことを十二分に匂わせる。

で、信州の女であるあなたならばですよ、
堂々と、あれま、このお値段、とてもとてもアタシの手は出ませんわ、失礼しました、と言い放って出て来なさいよ。

平和を好む家人としては、黙って退散、が最上の方策だったんでしょうけれども……

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (10/12 10:49)
信州の男は座り込む。
最近あまり聞かなくなった言葉、ウィンドショッピング。私はそれが大好きで、特にスポーツ用品店、雑貨小物類を売る店、眼鏡屋、家具屋、ペットショップなど覗くのは大変楽しい。
最近の販売形態は、あまりお客様に声は掛けないのが主流のようで、品物を思う存分眺められるのがありがたい。
しかしこの頃、若い女性のお客の多い店には入りにくくなってきた
二年程前に行ったディズニーランド、以前はミッキーの耳など頭に着けて闊歩したものだが、その時は若い人の間に身を置き、行列するのもやや違和感を感じるようになっている自分に気がついた。
夢の無くなりつつある人間が、夢の国に身を置くと、何故かややうつむき加減になる。
これではいけない…ご同輩達、ベンチがあるとすぐ座り込むなんて事はやめて堂々と闊歩しようではないか。
では、また。

☞萬年より (10/12 13:11)
座り込むのは、買い物のお伴。
すくなくとも、3~4軒は観てまわり、そして、また最初に戻って吟味する。
ベストバイしたい気持ちは大いにわかりますので、喜んでつき合いますよ、萬年の場合は。
amazonでは、訓練された店員とのやりとりは味わえないですから、やはり店内巡回は大切。
どうぞご覧くださいませ~、のうわずって絞め殺すような声だけは、いただけませんけれど。

正義の側には 決して立つまい。

とあるツイートを読んだ。

―シーシェパードと、真っ向から言い合いになって、
「カンガルーとワニを喰ってる人達に言われたくない」って言ったら、「人の文化に口出しするな」と言い返してきた。唖然ですよ。
……、とあった。

21世紀になって、日本の調査捕鯨に海賊行為の矛先を向けてくるようになった集団らしい物言いなのかどうか。

論争の内容はともかく、
正義の旗を掲げる者こそ、残酷で、非道に陥りやすい。
ゆえに、そういう者には軽々に近づいてはいけない。

たとえば、〈イジメ〉を仕掛ける側のほとんどは、自分は、公平や公正の実現を行なっている、と思ってるんではあるまいか。

だから、正義は自分の側にある、自分こそ正義、といった想念を自分の裡に見出したら、おいおい危険な領域に足を踏み込んでいるぞ、と立ち止まることにしている。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (10/8 14:21)
勧善懲悪は現実的でない。
兎に角、子供の頃から正義を振りかざす漫画、テレビドラマが多かった。正義が悪を徹底的にやっつける。それが当然だと刷り込まれてきた。
ところが、身近には完全な悪、完全な正義など存在しないように思う。ふらふらとそのどちらかに近づいたり、離れたりして生きていく。
正義を完遂するため始めた先の大戦も、敵から見れば我々は悪の権化。
ほどほどの正義を振りかざし、ほどほどの悪に身を染める。出来るだけ極端に走らず中庸の精神で生きていく。
優柔不断と思われようが、そんな生き方が肝要であると私は思っている。
では、また。

☞萬年 より  (10/8 17:39)
竹をスパッと割ったような正義と悪が存在しないからこその〈勧善懲悪〉なんでしょうね、きっと。
必殺仕事人にしたって、お金欲しさに悪行の者を殺害するわけですから。
家では、腑抜けの婿殿を演じながら……。

あえて 差別の汚名を着ても、

……、これだけは言っておきたいことがあって。

お店に入って、品定めをしていた家人が、
―かわっいい~!  、と語尾をふあっと伸ばし、うわずった声をお立てになった。

―おいおい、そのボキャブラリ、分別をわきまえたご婦人が使っちゃあマズイでしょうが……。

その場で反論もなかったけれど、別のお店で再び口にしていたから、どうも聞いて(効いて?)いなかったらしい。

カワイイ、キモイ、それから、ヤバイ、は、これ以外に感情吐露のしかたを知らないテーンエイジャー(の女性) の、いわば三種の神器なのだ。

だから、もっと洒落た感性表現ができるであろう人生の経験豊かなご婦人が、口にする言葉ではありません。

それとも、あえて口にすることで、みずからを若く感じ、かつ、若く見られたいのか知らん?

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (10/6 9:56)
やばいよ、やばいよ。
テレビなど見ていると、カッコいい芸能人を見かけた若い女性達がヤバイを連発している。
私、先日散歩をしていたら近所の女子中学生にやばいを連発された。家に帰り「おれも芸能人なみだね。やばいを連発されたよ」と誇らしげに奥さんに話すと、芸能人に対するヤバイは、良いものを見て感激した時に使うヤバイ、私に対するヤバイは、みたくないものを見て落胆した場合に使うヤバイだそうだ。

そんな区別も出来ない自分が1番ヤバイ。
では、また。
☞萬年 より (10/6 15:32)
感嘆したことを、ヤバい、と表現しているようですね、主に。
数十年前は、その筋の方々が専売特許でご使用なさっていました。
要は、業界の者であることを周囲に明示する語彙だった。
もちろん、原 節子は決して口にしなかったでしょう。(時代錯誤か)

☞ジョー氏 より  (10/7 6:47)

 

アサギマダラのためだけに。

庭のフジバカマ(藤袴)。
昨冬に刈り込み過ぎたのか、あるいは、アネモネ カナデンシスの繁殖力の前にトボッてしまったのか、ギザギザの葉を出すも、現在20㎝くらいにしか伸びていない。

10月までチャンスがあるとは言え、この調子だと今年の花は楽しめそうもないか。

ということで、せめては他人様の庭で楽しませてもらおうと探したら、その持ち主とお話しまでできた、というお話。

―アサギマダラを呼ぶために、これを植えただよ。

なんともロマンティックなココロではないか。

―撮るなら、止まって羽を開く時を狙うだね。
また、晴れた日に来たら最高だ。

なにかとお心遣いとお許しをいただいて、近くから美しい乱舞を眺めることができた。

こういう日もあるから、人生は捨てたもんじゃあない。

では。

〈コメント〉
☞つー  さん より (10/4 11:55)
人生の海原を渡りきろう。
アサギマダラのために藤袴を植える。実にいい話ですね。近所の人とのそんなさりげない会話で、充分一日が満たされる気がします。
近所にいる小さな蝶が、実は大海原を渡る。
「昨日見た夢ちっちゃいでっかい夢だよ。蟻がリュックしょって富士登山」そんなフレーズが浮かびました。
心休まる話、ありがとうございました。
では、また。

☞萬年より  (10/4 13:54)
   てふてふが一匹 韃靼海峡を 渡っていった。(安在 冬衛)
……、の世界ですね。
アサギマダラの場合は、群れをなすと思いますが。

軽口を戒める処。

ルノワール氏が、スマフォの画像をひとつ見せてくれる。

この場所、わかります?、っといった表情だったので、

―もちろん。牛伏川のフランス式階段工ではありませんか。僕の庭みたいなもんです。

ルノワール氏ら御一行様は、陸上競技場あたりからスタートして、流路までを往復するトレーニングランをしているらしい。

狭い谷間を一気に流れ下る牛伏川の氾濫を抑えようということで、築営された階段状の水路(全長141m、19段)。
両岸の石積みが洒落ていて、ここ20年かけて、遊歩道やキャンプ場が整備された。

水路の底は石張で、普段の水流は、大人のくるぶし程度の深さ。
小さな子を心配なく遊ばせられるから、家族で憩える場所。

比較的に閑散としているから、萬年も以前から訪れていた。

この夏(おそらくは週末)、息子は家族と出かけたらしく、

―いやぁ、すぐ近くの駐車場に3、40台が停まっている混み様、とてもとてもと、嘆く。

幼い頃の、ゆったりとした階段工周辺の趣きはいづこへ、ということらしい。

お気に入りの地が有名になることの、代償ですな。

ところで、この場所については、面白いお話が残っておりまして。

古来、すぐ近くの牛伏寺で、内田地籍の人々が盆踊りを楽しむのが年中行事であった、という。

階段工は完成に、 1885(明治18)~1918(大正7)までの 30年間の工期をかけている。
この間、技師や労働者が現場に寝泊まりして、砂防工事を続けたわけだ。

で、これらの工事関係者が自然と、地元住民とともに盆踊りに参加するようになった。

或る年のこと、地元の者が、ササラ踊りの歌詞を即興でもじって、こう唄った。

―人夫殺すにゃ 刃物は要らぬ、雨の三日も降ればよい。

さて、これを聞いた労働者たちが激怒して会場は揉め、盆踊りは即中止。

以来、牛伏寺の境内では盆踊りが挙行されなくなってしまい、今日まで一世紀。

調子に乗って相手の気持ちを害するようなことを口走った日には、トンデモナイ結果となる、という見事な逸話でありますが、これチャンと記録に残っているんです(内田史誌)。

いまや識る人は、地区の古老でさえいないでしょう。

しかし、読者諸氏はこれから、階段工と聞けば、このエピソードを必ず思い浮かべるでありましょう、きっと。

では。

〈コメント〉
☞つー さん より (9/29 16:17)
刃物と言葉は使いようで切れる。
安曇野に移り住んだ20年前位、紫陽花を見に行った折りに、その水路に寄りました。寂しい場所だと思いながら、建設当時は多くの作業員で活気があったろうなと想像したものです。
今は大分、施設として整えられているようですね。久しぶりに訪れてみたいものです。
口は災いの元、私もそれが原因で他人を傷つけた事があるに違いありません。
言葉は、急斜面を一気に流れる水の様に話すのではなく、階段で抑制され穏やかに流れる水の様に話したいものです。
では、また。

☞萬年より (9/29 16:31)
立て板に水を流すように、よどみなくまくし立てる、って言い方があって、これぞ反論の余地を与えないような江戸好みだったんでしょうか?
啖呵、ってやつ。
ですが、やはり穏やかに暮らしたいものですね。

☞ルノワール氏より  (9/29 20:37)
フランス式階段工と牛伏寺
牛伏川に治水対策のダムを造るとき
沢山の人々の苦労が有ったのですね
牛伏寺で盆踊り?
あの急坂のてっぺんの寺で盆踊り
盆踊りのために急坂を自分の脚で登ったのでしょうか?
昔は自動車なんぞ無かったので普通な のかな?
私は毎週末
マラソンクラブのメンバーと松本空港から牛伏寺の往復ランニング(32キロ)しているので
情景が
浮かびます
昔の人々の生活
勉強になりました。
有難う御座いました  。