プロをなめたら あきまへん (ガンバって 大阪)

居間に居た家人に、
―ガンバ大阪のアデミウソンね、山雅戦でやたら得点した、彼。
と、切り出したら、すかさず、

―えっ、山雅で獲ったの?

山雅ファンの一途さには、ほんとうに涙が出てくる。

でも、2015年アルウィンまでやって来ては、山雅 J2落ちろ! を連呼するようなファンを飼っているクラブからは、高木 彰人を借りれば、それで十分。

朝の8時半過ぎ、近畿道で走行車線を走っていたら、追い越し車線の車がぶつかって来ると、そのまま走り去っちゃいました、と(おそらく)被害者からの通報。

ナンバーを頼りに調べたら、どうもガンバ大阪の選手らしいね。

今日はクラブハウスに居るようだから、そちらに急行します。
この際、高速隊の担当者はもちろん、駐車してあった当事車輌の損傷を事前に確認しておく。

練習が終わるまで待ってくれた、とはなんとも温情的だなぁと思うが、ふつうは、呼気検査まではしません。

事故に至る経緯を聴き取っている過程で、
深夜の飲酒についての告知があったのか、あるいは、事案発生や当人の様子にピンと来た担当官の判断があったかのどちらかで、おそらくは前者。

とにかく事故処理の場数を踏んでるプロフェッショナルをなめてはいけないのです。

相手方からも調書は取りつけてあって、その最後で、どうですか、厳罰を希望します?、と訊ねている。

一歩間違えたら命を落とすところでした、これって。
えっ、酒があったの?!
当然厳しく罰してください。
となれば、送致後の処分にも影響してくる塩梅。

僕たちが勤務する、いわゆるフツーの会社では、こういう非行をおこなった者を(将来性や地位はともかく) 組織に置いておくだろうか? 否か?

この質問への答えの集積が、そのまま社会通念になる、と思われるが、

(理念上)存在価値無しと、チェアマンは、お怒りをメディアにぶちまけたらしく、既に大阪城の外堀は埋まったか。

さて、ガンバさん。

泣いて馬謖を斬れるかどうか?

では。

むしろ有害、街の声。

〈ヤラセ〉という捏造(デッチあげ)の問題が起こるたんび、槍玉にあがったメディアの言いわけは、誤解を与えるような〈過剰な演出〉がありました、が決まり文句だ。

これって、演出がかならず在ることを認めているんだが、では、どのくらいやれば過剰となるのか? が示されたためしがない。

観る側にしたところで、事前にいろいろと打ち合わせがあって、不都合な映像や言動はカットされてんだろうぐらいに思っているから、あたかも実際そのままのように見せた〈嘘〉を、発信側と受信側の双方が楽しんでいる、と済ませてしまうのが賢明に思われる。

だいたいが、カメラを従えた若いのが、「NHKですが……」と突然玄関先に現われたら、やぁ、これは、これは、いつもお世話になります、とウエルカムするはずがない。

これだけダマシのテクニックが、周囲に転がっている当世だというのに。

あとひとつ。
主にニュース番組などで、街頭でマイクを突きつけられて意見を求められるシーン。
街の声を聞きました、とか前置きが入るやつだ。

あれこそ、メディアによる、巧妙な、出来事/事件/事故についての心象操作に違いない。

素人が、素人なりに感じていることが暗示され、そこには切り捨てられたさまざまな意見があったことなど、考える間もなく過ぎ去るしくみになっている。

そもそも制作側が望む意見が採用されるに決まっているんだろうし、街の声こそ要らないわ、といつも思う。

そうか、そういう考えもあるのか!、とハッとする意見になど、お目にかかったことないでしょう?

人の命が傷つけられた凶悪な犯罪が起こると、近隣の住人と但し書きされた、胸から下だけが映り、時々見かけたけれど、ふつうに挨拶する人でしたよ、とか喋っている。

そりゃ、そうでしょうよ、たいして関心もない他人だったんだろうし、犯罪者だって挨拶はするだろうし。

何時こういうことが起こってもおかしくない、とあたしゃ思ってましたよ、というインタビュウに是非お目にかかりたいものだ。

でもね最近、ついにやったか、やっぱりねぇ、といった人殺しの未遂事件がありまして、また別の機会にご紹介します。

では。

ルノワール氏の変節。

あれほど太田 裕美とセットで語られるルノワール氏が、なんとも節操もないことに走った始末。

―来年のカレンダーがね……。

なんのことかと思いきや、宮崎 美子(現在の)を撮影したものが発売される、とのこと。

萬年の中では、ミノルタカメラのコマーシャルモデルにプラスアルファ程度の御方なんだが、初老になってデビュウ当時とおんなじように水着でご登場なさるとか。

製作した側からすると、おおいに洒落のめすノリなんだろうけれど、太田 裕美を捨てて、そこへと向かうルノワール氏はいただけない。

ギャラほしさの宮崎を批判するものではないが、なにがピカピカなもんか。

しかも、そのカレンダーの価格を聞けば、亡き大原麗子のメモリアル写真集よりも高額ときたもんだ。

つまりは、ますます義憤を感じているのである。

では。

〈コメント〉
☞ルノワール氏 より (10/21 13:36)
宮崎美子ミノルタカメラ
先日、我が家のテレビが壊れたので、新品を購入

今時のテレビはドコモ光回線があれば
ユーチューブが見れるのだ
スマホ📱でも見れるけど
やはり大画面が良いでしょう!
宮崎美子姫の
♪今の君はピカピカに光って♪ミノルタ×7
や太田裕美姫が出演中の
ドリフターズ8時だよ全員集合ってのを大画面で鑑賞

宮崎美子姫の来年のカレンダー📅は近々
アマゾンで販売するそうです
6600円也

☞萬年より  (10/21 15:53)
いやはや……。
そのカレンダーをご自宅の壁に掲示なされば、ルノ氏の本気度を称賛するのですが、まさかね。

平和で悩む悪い癖。

拙宅では、某公共放送の連続番組(15分)が毎日、ふたつ流れている。

ひとつは現在のもの、もうひとつは30年位前の、沢口 靖子が主演しているやつ。

家人は、録画しておいたものを帰宅して、主題歌など早送りでご覧になるのが日課。

その時、居間では食事となれば、自然と物語の断片が当方の耳に入ってきてしまう。

現在放映中のは、作曲家が主人公で、どうやら大政翼賛の事業で、南方の戦線へ取材におもむく、という内容のようだ。

戦争というのは、自分や家族がいつ死ぬかわからないから、嫌なもの。
けれど、国家がそこに突入してしまえば、逃げるわけにもいかないじゃん、というのが民のおおかたの処世だ。
宗教的な信念を別にすれば、いろんな主義は後からつけた大義名分だと思う。

でも、物語を聞きかじっていると、主人公とその家族が、悩むわ悩むわ。

周囲の高揚感や好戦的な熱情下で、自分ひとりが戦いを厭っているような誠実さで。

たとえ戦争遂行へ協力したにせよ、当時、それでそんなに懊悩したのだろうか?、ふつうの日本人が。

ここでトコトン苦悩させておかなければ、主人公の人間性が担保されず、さらに、後世の日本を否定してしまうといった雰囲気や、忖度がいまだに残るんだなぁ、とつくづく気が滅入ってしまう。

敗戦直後、旧海軍のエースパイロットが街を歩いていると、子供たちから「戦犯!」と言われ投石された、という話があるけれど、これとそうは変わらない〈反省〉なのだ。

僕たちは、70年もかかってなにを総括してきたんだろう、かね……。

けれど、NHKさんよ、かつての大戦に対してこういう描き方をするならば、憲法第9条遵守を宣言しておきながら、災害が起きると、へーきで自衛隊を要請するような地方政府の思想的な矛盾も、同じように報道しないと、やっぱりおかしいわ。

日ごろ否定しているもの(自衛隊)をやすやすと使う、っていう節操の無さは好きになれない。

では。

それでも生きたい 秋。

白秋……。

味わいある日本語のひとつ。

転じて、人生の季節としての秋、つまり、中年期以降を指して用いられる、と辞書にはある。

ただし、萬年の周囲で、そういう使われ方を耳にしたことは、いままでほとんど無い。

思うに、きょうびの中年以上の者には、人間的な落ち着きや深みなど、なかなか備わらないからではないか?

月日に晒されて、秋の日差しのごとく透明に老いてゆく、なんてことは……。

例えば、肺がんを患う90歳の男性、担当のドクターが、もはや抗がん治療は施しません、いつ寿命が尽きるやも知れないとの所見、と家族から聞かされ、オロオロと泣き崩れているらしい。

いくつになっても、死とは、ご勘弁願いたいものなんだろうけれど、
こういう話を聞くにつけ、肉体以外の、心の熟成や老成やらはもはや、この民族から消失するんでしょうかね。

……、というわけで、思いは、自然へと向かってしまう。

開花したとたんに冷え込んだためか、金木犀の香りが10日以上とどまっていたり。
無花果(いちじく)の実を、初夏ばかりでなく、十月になって再び摘んでみたり。
ボールに4、5杯は獲れそうな勢い。

学ぶこころさえあれば、自然はいつでも教えてくれることがわかってきた、秋。

同僚が知っている小学五年生(女性)は、文学が好き、という。

どんな作家を好むのかを聞いてもらったところ、
太宰 治、中原 中也、谷崎 潤一郎 という返答。

太宰、中原はわかるが、谷崎とは面白い。

―なかはら ちゅうや、と読むんだ。戦前の詩人だよ。

とか話をしながら、こういう個性がどんどん現れて、いまの大人の感性なんぞ陳腐化して葬り去ってもらいたい、と思った。

で、いただいた雑キノコを眺め、ジョージ ウィンストンを聴きながら、季節の深まりを楽しむばかりなり。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (10/13 12:04)
それぞれの秋を楽しもう。
より空気が透明感を増し、間もなく山の木々が錦に彩られるこの時期、例年なら間もなく訪れる冬のシーズンに備え体力作りに励み始める時期だが、今年は窓の外をぼんやり眺めている時間が多い。
この美しい季節をあと何度味わうことができるのだろうか。まさに肉体的、精神的老いを実感している日々。
しかし、深刻に考えるのは止めよう。これからの人生、まだまだ長い。
人生は自分次第で如何様にも色付けできるはずだ。とりあえず焦らずシンプルに生きよう。日々変化する木々の色づきを楽しもう。
今年の秋はいつもの秋より長くなるような、そんな気がする…。
では、また。