ひと粒で 二度おいしい理由。

― かならず二度楽しめること、それはなにか?

答えは、孫の来訪、というのが、萬年式ナゾナゾだ。

子の子、すなわち孫は、来ても嬉しく、帰って行く時もまた、嬉しいもの。

そのワケは敢えて言わないけれど、実感をお持ちの読者諸氏は多い、と思う。

ある日、5歳になった孫に、ナゾナゾ遊びを仕掛けてみた。

― 道端に、赤い顔をして立っていて、葉書を食べてしまうものは?

こういうのは、説明を加えながら、正解にたどりつくことができる。

次に、

― 大きいものは入れて、小さいものは入れないものは?

と言いかけ、途中で言葉を飲み込んでしまう。

正解は〈蚊帳〉なんだが、きょう日、とても使えないネタなことに気づく。

ナゾナゾの古典も、いまや風前の灯だ。

では。

道 についての雑感。

ここ数日来、せいぜいその内容はハイライト映像で観るくらいなんだが、大量得点ゲームの報せが多い。

大宮 4 : 長崎 0 (3/27)
新潟 7 : 東京ヴェルディ 0 (3/27)

これらは、同じリーグの話ゆえに、けっこう胸が高鳴るけれど、むしろ大量失点した側の心情が思いやられてしまう。

海外に目を向けると、リーガ エスパニョラ (スペイン1部)では、

レアル ソシエダ 1 : FCバルセロナ 6 (3/21)

ダビド シルヴァを擁し5位あたりで健闘しているソシエダがまさか、とは思ったが、このゲーム、シルバはベンチ入りさえしていなかった。

6点も獲れば、最後のほうは得点時のセレブレーションはごく醒めたものになるもんだが、全員がきっかりとひとつに集まってくる律義さ。

入れて当然、といったスタープレイヤーの驕りを、全く感じさせないバルサには、感動する。

こういうゲームが気にかかるのは、おそらく得点産出に苦しむ我がチームのことが、抜けないトゲのように、いつもココロの底に在るからだ、きっと。

4~5年来ずっと、得点の乏しい山雅であるから、ここへ来てことさら気にすることでもないはずだが、〈新生〉に、いつかしら得点力の向上、を勝手に描き込んでいる自分がいる。

本日のアウェイ水戸戦にしたって、自分を失わずに平常心でプレイすれば良く、出口の勝敗をあれこれ気にするな、とチームには申し上げたい。

雨中、水戸へ出向くチームとファンサポーターには、心から感謝します。

こんなことを寝転がって考えていたら、ちょうど今から100年前に書かれた短編の末尾が、胸に去来した。

〈希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る〉(『故郷』魯迅  井上紅梅 訳)

では。

COVID-19との一年。

この流行り病とのつきあいも、一年あまりが過ぎた今。

ひとつの備忘録として、書きつけておきたい。

COVICD-19による国内の死者は、8,938名。(3/25現在、厚生労働省 発表)

この数字は、感染して亡くなったすべての人をカウントしたもの。
COVID-19が直接の死因となった人に加え、感染がきっかけで持病が悪化したことで亡くなった方、他の病気で命を落とした人を全部含む。

いままでの(季節性)インフルエンザによる死者は、2000年以降、だいたい2,000~3,000人で推移してきた。
ただし、この数字は、インフルが直接死因となったケースの合計に過ぎない。

これに、インフルエンザの感染がきっかけとなったが、持病とか別の病気によって亡くなった人を加えると、おおよそ、年間10,000人くらいらしい。

……、となるとですよ、死という最悪(だろう)の結果からみると、その数字は、旧来のタイプとほとんど変わっていないんだな。

これを、どう評価するか?

日本は、よくできているんでは?、と公言する政治的なリーダーが出て来てもよさそうなものだが、そういう議論はなかなか聞けない。

まぁ、そういうことを言った日には、猛烈な批判を浴びるに違いないが。

〈気の緩み〉とかいう、情緒的な煽りにはうんざりはするけれど、結局、この国では、誰が先頭に立ってやったとしても、たいして変わらない施策をやるのではないか。

政府の無策や無能を言っている側にも、おそらく画期的な代案がなさそうだし。

ひたすら気持ちの引き締め、それだけで押し通せる国って、かなり特徴的な部類だろうな、と思っている。

では。

もうひとつは、再会。

3月15日は、あの独り者の狐のほかに、もうひとつの出逢いにめぐまれまして。

こちらのほうは、正確には、再会というべきでしょうか。

毎年、会社の軒先で子育てをする燕たち。

今年はこの日に、(萬年にとっては) 初めて姿を見せたのだ。

一羽、二羽と、さかんに巣を出入りしている。

で、下の地面をみると、卵の破片がいくつか落ちているではないか。

越冬地から戻って、彼らがまづおこなう仕事はどうやら、旧巣の確認と清掃、そして、修復のようなんです。

では。

3月15日の 出逢い。

― 狐って、冬眠しないのかしら?

調べてみると、どうも彼ら、冬眠はしないようだ。

この日の朝、6時頃。

家から出ると、すぐ隣の畑の中、狐が一匹、鼻先を地面にこすりつけるようにしながら、進んでいく。

距離にすると、30mくらい向こうのあたり。

熱心に食物を捜しているんだろうか、息を殺して見つめていたわけでもないのに、こちらには一向に気づきもしない。

道を渡ると、そのままの格好でずっと歩いていった……。

大した食べ物にもありつけていない様子に、餌付けの誘惑にかられたが、そうしたらきっと、あいつの自由と自立を奪うことになる。

僕にできることはせいぜい、新見 南吉の『ごんぎつね』(1932発表)を読み返すくらいだろう。

そして、二日もすると。

庭の隅に見つけたふきのとうを、天ぷらに仕立てて食している萬年なのだ。

では。