肩に天使が 舞い降りた。

Engel On Our Shoulder……

映画『セイヴィング プライヴェイト ライアン 』(ライアン二等兵を救え、1998年公開、米映画) の終末。

プライヴェイトとは、米軍における、新兵の次くらい、つまりは、最下位の階級名。

ひとりの母から息子4人すべてを戦争で奪ってはならない、といった米国式信念による作戦とはいえ、

優秀な猛者ぞろいの小隊をまるまる、ライアン二等兵ひとりの発見と救出に投入することに対する、兵士間に漂う、わだかまりみたいな空気感が、

巧く伏線として描き込まれているので、それだけ最後に、カタルシスが用意されている、といったシカケ。

スピルバーグ作品ほとんどが持つ、こういうサーヴィスは、いいですよね。

さて、そのラストシーン。

ドイツのティガー戦車を前にして、壊滅寸前に追い込まれた分遣隊の頭上に、

突如、友軍のマスタングP-51 が飛来して、ティガー戦車を撃破すると、

負傷したミラー大尉(トム ハンクス) が、その機影をやっとこさ見上げて絞り出すのが、冒頭の言葉でした。

ネイティブスピーカーに確かめたわけではありませんが、

天使がそばにいてくれる、という定番的な表現なんでありましょうか、あれ。

で、萬年の場合。

去年に比べて、ニジュウボシテントウ虫による、ジャガイモの葉の侵食が極端に少なくて、まことに助かっているんですけれども、

これ、ナナツボシテントウ虫が多く発生して、それら食害虫を捕食してくれているからなんです。

葉の上、梅雨の陽光の中、くっきり鮮やかに輝く深いオレンジと、漆黒の斑点よ。

あぁ、まるで、天使のようだ……。

註 ☞ ニジュウボシは植物食、ナナツボシは動物(昆虫)食。

では。

天使は,すぐそばにいる。

天使とは、ひとに恵みを与えるために降りてくる、天からの使い。

(殺戮の天使、というのもあるが、これだって神の御心をなすために放たれる)

昔々。

イスラエルの民が運んだ聖櫃(アーク) の天蓋に置かれた天使ケルビムは、背に翼を持っていたけれど、

今日、人間界に下される天使のおおくは、スーツ姿であったり、風采の上がらぬ中年男の格好をしているのではあるまいか?

でなければ、僕たちが、天使に出逢った時、ほとんどその存在に気づかないでやり過ごしてしまう、なんてことはないはずだ。

知人の看護師さんが、患者に頭部を酷く殴られた。

もしもの損傷があるといけないと、念のため画像診断を受けると、脳動脈に重い病巣が発見された。

放置すればかなり危険、かつ、開頭手術もかなりむづかしい、とのことだったが、先月、無事に手術はおこなわれ、現在は療養中。

自分を殴った憎い患者が、実は、命を救ってくれた天使であった、というお話でした。

では。

元祖とは,別物と思ふ。 

先の金曜日、穂高(有明) まで出かけた。

この雨ならば、注文してからそんなに待つこともないだろうと、スパゲッティを目当てに。

お店に着くと、12時をまわっていたが、僕らの他に客はなし。

ひょっとしたら、この日、唯一のご一行様であったかも知れないが、

とどこおりなく頂戴し、また、雨の中、帰途を辿る。

途中、開〇堂の工場敷地に寄り、ペットボトルに井水を汲むが、ここでも順番待ちは、一切なし。

今回、僕にとっては二度目、家人は、三度目になるのですが、

車中、昼食に関する評価会と相成りまして、

― もともとが、や〇なみの常連だった御方が、あそこに、いまの店を開いたと聞いているんだけれど、結論から言うと、まったくの別物。
初めから、そう思ったけれど。

と、なかなか手厳しく始める家人。

麺、デミグラスソース、サラダ、盛り方のすべてが、本家とは違う、とのこと。

どのように違うのか、それは仔細にご教示を受けたけれど、ここでは略す。

数十年前、切迫流産で入院中に (娘はその後、無事生まれてくれた)、

実姉に頼んで、や〇なみさんのスパゲティをテイクアウトで食したほどの元祖通であらせられる家人のことゆえ、

その評価には、けっこうな説得力がある。

ま、いづれにしたって、その看板名に郷愁を憶え、穂高別荘地くんだりまで出向くのは、かつての昭和女子の皆様、なんだろうけど、

もしも、期待はづれを感じたら、お名前だけは酷似した店で食した、くらいにしておくのが、よろしい。

そして、上の評価は、お店の場所を教えてくれたワーゲン氏と、一応、すり合わせしておこう。

では。

オルレヤ の嘘。

かと言って、いつも僕が、ウソを吐いているわけでもない。

対家人は、のぞくとして、

言動にウソをちりばめていると、周りの者に要らぬ混乱を惹き起こしてしまうから、どこかで踏みとどまっている。

思うに、根っからの正直者でもある僕は、

幼い児には、

❶自分を良く見せたり、❷取り繕う、❸他者を悪く表現する、このどれか三つをしたいがために、事実と違ったことを言ったり、言うべきことを黙してやり過ごすことはしないように、と教えるだろう。

これらで、一度ウソをつくと、次から次へと虚偽を重ねることになって、自分を窮地に追い込みかねない。

知らないことをは知らない、と平然と言う、これがいちばん。

事実と違うことを言うばかりでなく、

言うべき時に沈黙するのも、またウソであることは、家人からの教え。

で、先日。

お隣の庭を何気に見下ろしていた家人が、あらま、と呟いた。

どうも、我が家の庭から、種が隣地へこぼれたらしく、身の丈1mほどのオルレヤの一群が、いまや、盛んに白い花をつけている。

これはいかん、とお思いになったのか、自分の庭のオルレヤを、早速抜きはじめていらっしゃる。

こっちから侵入したことの証拠隠滅を図り、そして、このまま黙し続ける。

これは明らかに、不正直、つまり、ウソの行ないではあるんだが、

まぁ、いいか。

繁殖力が旺盛でやっかいとはいえ、それなりに美しく、花市場で売っているくらいだから、

と、僕は、共犯を決め込んでいます。

では。

平気でうそをつく男。

借りていた本を返そうと、図書館へ出かけた。

受付で本を差し出した時、うっかりしてポストイットを貼り付けたままなのに気づく。

― こういうことは、お止め下さい。

付箋によって書物が傷むかのように、司書の女性が、それを剥ぎとった。

― これは、申し訳ない、二度としません。

ポストイットを使ってやりくりする知的作業のほうが、たかが本そのものよりはずっと貴重だろうに、と内心思いながら、心にもない事を、平気で口にする。

つまり、これからもやめる気は毛頭ない。

歳を重ねると、こういうことを流せるようになる。

ジョージ オーウェル(1903~1950年、英国作家) によれば、

― 自由になんらかの意味づけをするならば、それは、他人が聞きたくないもないことを、彼に告げる権利、といえるだろう。

とすれば、あの司書の方は、その自由を行使したのであって、僕は、

その自由を尊重するフリをした、というに過ぎないわけか。

では。