滅び去るものにカネを使う愚。

滅びつつ  ピアノ鳴る家  蟹赤し      西東 三鬼

転職して数年、つき合いの範囲もぐっと狭まり、日常も夫婦ふたりとなり、

頃合いをみて、2022年分で、年賀状のやりとりから足を洗った。

昨年末に喪中の挨拶をいただいた御方には、今回、その旨ご挨拶を申し上げることにしてあるから、年賀状は4枚ほどしたため、それで終了。

すこしづつ 生活身軽にしていって やがて迎えん〇〇を

……、とか思っているんです。

こんなささいな個人の話はともかく。

社会全体が、滅び去っていくのが自然な事がらに、手間とおカネを使い過ぎている。

たとえば、人生の終末を迎えつつある世代をより手厚く延命させようとして、社会的な資金を多く投入するような制度の数々。

高齢者介護の分野にビジネスチャンスあり、で走った結果、ハコモノ、訪問システムが僕らの周りにはやたら横行する。

長幼の序を重んずる、社会的貢献への感謝、これは、決して否定しない。

けれど、ムリな延命、過剰すぎる看護がご本人と家族にとって、果たして幸甚なことかどうか、考える時期に来ているのでは?

生物的な摂理にあらがうのもいい加減にしないと、当人、および、次の世代の負担やしわ寄せがはなはだしい。

批判が怖くて誰も言わないけれど、感じているのだ、日本人の多くは。

ところが、来世を想定するような宗教を民族的な根底に持っていないのが、日本人。

だから、現世への見限りが、整然と社会共有されることがない。

つまるところ、現世にしがみつくばかりの規範はなくならないだろう。

昔、シナで近年、万里の長城の石垣が年々消失している。
で、その原因が、周辺の住民が建築資材にするためせっせと持ち去っているから、というニュースを読んだ。

単なる石積みを、文化遺産などといって死守するよりも、現在生きている者の糧にすることのほうが、よほど文明的な生活、と僕は思っている。

もちろん、ご高齢者の存在が無価値、というつもりは毛頭ありません。

では。