残暑の無念,ふたつ。

秋が立った日、

逝く夏はこれで〆よう、と思い立ち、

7歳の男児を連れて、

数十年来、夏季限定で営業の、かき氷屋に出かけていった。

あがたの森に駐車して、歩く。

店に近づいていくと、あれ?

しっかりとシャッターが下りているではないか?

通りを渡って、貼り紙を読むと、

〈ケガの為 休業〉

なんということだ。

ヒマラヤスギの緑陰で食する、という目論見も、一瞬ですっ飛んで、
事実上、今夏の店じまいを覚悟しなきゃ

同じころ、海の向こう。

ロビー ロバートソン (1943年7月5日~2023年8月9日)が、ロサンゼルスの自宅で亡くなった。享年 80。

ザ バンドが創り出した音楽を通して、ずいぶんと楽しませてもらったし、いまでも時折、車中で聴いています。

今回は、映画『ラストワルツ』(1978年7月日本公開)から、一曲。

『The Weight』(人生の重荷、とでも訳す)

ステイプルシンガーズとの共演で、リードギターを奏しているのが、ロビー。

では。

無題。

先日、高校卒業〇〇周年記念集会への案内状が、届いた。

こういう便りは、20年ぶり。

みると、会費が、(当日受付にて徴収で)

男性 6000 円、女性 5000 円 、とあり、

思わず、なんだ、これは?

価格差が、まったく理解できない。

飲み会、という場にはトンとご無沙汰なんだが、世上で通用しているのかいな?、こういうやりかた。

女性を軽んじているように、僕には思えてしまうのだけれど、

これ、

性別は関係ないだろうの姿勢でいながら、都合が悪くなると〈女〉へと逃げ込む態度と同様に、タチが悪い。

では。

マティスには,向日葵がよく似合う…

…などと、呑気なことを言っている初秋。

けれど、この季節になれば、かならず、

どこかでだれかが、先の戦争(1941~1945年)について語るならわし。

300万人の日本人が命を奪われたんだから、それも当たり前だろうが、

あれから、時もずいぶん経って、敗戦時にぎりぎり成人になった者は、生きていて 98歳。

10歳だったら、88歳。

要は、戦争を始めたり、旗振りをした者、参戦し得た者は、ほぼ全員が死に絶えてしまった。

正直言うと、

物心ついていなかったから、生れてないから、俺は知らん、を平気で押し通せる時代がやって来ている、と僕は考えている。

そして、どうしてああなっちゃったんだ?、と責めたくなる行動や態度が、テーマが違っても、今の日本には山ほどある、それが僕らの出発点だ。

自分たちの愚行を棚にあげておいて、過去を一方的に断罪もできません。

戦争、について言うなら、

人類史上、戦争は常在のことがらであるし、

日本のまわりには、油断のならない国家だらけ、という発想でなければならず、

核による被爆を専売事項にして、だからこそ我ら平和について発信すべき者、などといったオカシな自己規定は、もうやめることだ。

かりに、被爆国というならば、それを二度まで投下した米国に対する責任追及がどこかに飛んでしまっているような議論は、いくらやったところで死者は浮かばれない。

日本が戦争を起こしたことが、当然の帰結として日本への核兵器使用になったわけでは全くなかった、ということを、忘れてもらっては困る。

このいくさについては、過去一年だと、

伊丹万作(1900~1946、映画監督) による『戦争責任者の問題』(1946年8月発表)が、興味深く読めた。

短文ですし、青空文庫でもタダで読めますよ。

では。

なぞなぞ交歓。

小学一年生の男児と、夏休みの宿題をやる、涼しい場所を、

こじんまりした村立図書館の円卓に見つけた。

(もちろん、下見の際、職員の方からは許可を取りつけてある)

昨日のこと。

ふたつの椅子を寄せたテーブルの片側で、宿題に向かってしばらくすると、

― やぁ、久しぶり!!、と挨拶を男児に投げかけて、同学年とおぼしき女の子がひとり、卓にやって来た。

夏休み帳を覗き込むが早いか、テーブルから鉛筆を取り上げると、

さんすうの引き算を、両手の指を使いながらすばやく計算し、答えを記入してから、

― 半分やってあげたから、こっちの半分は自分でやってね、ときたもんだ。

― ありがとう。君のは筆跡が違うけれど、まぁ、いいか。
じゃあね、こういう引き算はどうかな?  なぞなぞだけど。

電線に すずめが 10羽とまっていました。これを鉄砲で打ったら、1羽落ちてきました。さて、電線には、何羽残っているでしょうか?

― 10 ひく 1、だから、9羽。

― 残念でした!  鉄砲の音に驚いて、皆逃げてしまったので、0羽が正解。

― では、こんどは私の番。

世界の真ん中にいる虫は何でしょうか?

― (すこし考えるもわからず) 降参。何?

― 答えは〈蚊〉。〈せかい〉の真ん中ね。

― じゃあ、次はこれだ。

男の子にはふたつあって、女の子にはひとつしかないものは?

― (すこし考えていたが) わからない。

そこで、やおら、ノートの余白に、

〈おとこのこ〉〈おんなのこ〉と並べて書くと、黙って、こ (の字)に〇をして見せた。

― ふーん。なるほど。

― 今度、友達にやってみてごらん。

……つむじ風ように襲来すると、さらり、と去っていった女児。

この間、5分もなかった、と思う。

ただし、訊いても、〈ゆいちゃん〉という名前しか教えてくれない、小学一年生なんであります。

では。

本題は,別のところ。

ジャガー氏との会話(昨日篇) は、もともと違うところにあった。

彼のお説では、

テストで良点を出す子は、

出題者が、どんな回答を求めているか、を察知することに長けている。

たとえば、このことがらを、20字以内で言い換えよ、と問うていたら、

文章中にはかならず、20字に限りなく近い表現が存在するはず、と考える。

いわば、出題者の意図をさぐるゲーム、みたいな世界になる。

すると、ますます、生徒は、テストを出す側(教師)の器(視点、了見) を超えることがむづかしくなるわけだ。

― ところで、今年度の全国学力テストね、長野県は、全国平均以下の出来だったらしいですよ、とジャガー氏。

― 他県から来た小学生が、こっちの同学年の夏休み帳をみて、その薄さに驚いていたところをみると、それもありでしょうかね、と僕。

もちろん。

夏休みの課題の多寡で、生徒の〈学力〉が決定される、とも思っていない。

 

この学力テストでは、教科の問題よりも、〈質問紙〉と呼ばれる設問のほうが興味深い。

たとえば、小学生6年生向けのを、いくつか挙げれば、

❶朝食を毎日たべている

❷いじめは、どんな理由があってもいけないことだと思う。

❸学習塾や家庭教師の先生に教わっていますか。

❹あなたの家には、およそどれくらいの本がありますか(雑誌、新聞、教科書はのぞきます)

❺新聞を読んでいますか。

……問い❶❷は、a当てはまる、bどちらかといえば、当てはまる、cどちらかといえば、当てはまらない、d当てはまらない、の四択で回答。

問い❹は、0~10冊、11~25冊、26~100冊、101~200冊、201~500冊、501冊以上、の六択で回答。

問い❺は、ほぼ毎日、週に1~3回程度、月に1~3回程度、ほとんど、まったく読まない、の四択。

……こういうのは、かならず、なんらかの仮説があっての設問だろうが、

文部科学省(=その御用専門家)の、教育に関する見識の旧さ、が垣間みられるではないか。

では。