僕のカーライフ❸

邦画ではあまり記憶がないのだが、

欧米の作品だと、

乗ってるクルマで、登場人物の階級、知性、職業、ケチ、放蕩なんかを、巧く表現しているのに出会う。

例外は、刑事物。(社有車ですから)

でも、そのまた例外が、コロンボの、プジョー403 だったりする。

たしか、カミさんは、新しいワゴンかなにかが、愛車だったような。

さて。

上の写真は、ビル フリゼールのアルバムジャケットを、そのまま転載。
(わかったら、著作権で告訴されるかも)

ガス ステーションには、僕のご幼少の、ここでは書けない悲しい思い出があって、

反面、それゆえに、懐かしい情景。今でも、時々思い出す。

給油所が、ロマンティックに、そして、リアルに出てくるのは、

ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(1964年、仏西独合作) の結末。

雪の舞うラストの色彩美は、始めて観た当時、さすが、仏蘭西、って思った。

そのフランスもよくわからずしての頃だから、若気の至りです。

あの結末。

かつての熱き恋人が、その後、それぞれ家庭を持って数年が経ち、給油所で再開する設定。

現実は、男女どっちに苦く、悔恨はいづれにありや?

― つまらん深刻ぶった論評が、湧きそうですが、

そんな答えを、映画は出そうとしていないし、観る者にも求めていないように、僕は思うんですがね。

で、現実の僕は、と言へば、

直進するつもりで、信号が黄色に変わった交差点で、

― どうして?、いまのは行けたでしょ。

と、助手席の小学一年生に詰問されては、

― いやいや、右折しようと前に止まってた車の横に、あまり間隔もなくて、
しかも、向こうからは、強引に右折しようとする対向車が来てたじゃん、

と、エクスキューズに、忙しい。

では。

僕のカーライフ❷

路上で、善意による不法、といった行為を、けっこう目にする。

たとえば、自分のレーンが渋滞していないのに、(交差点、駐車場などに)右折しようとする車を先に行かさせようとして、停車する。

道路交通法上、ルール無視。

(前車の停止を) 予想もしていない後続車にとっても、きわめて危険。

けれど、ご本人は、自分が善意の人と思ってやっているから、始末に負えない。

職場のアベちゃんと話したら、彼の御父上も、よくやっているらしい。

たとえ、渋滞した対向車線のすきまに入れてくれる親切心であっても、

右折するほうは、車列の陰からやってくる自転車や歩行者には、細心の注意を払わないと、

〈サンキュウ事故〉の加害者になりかねない。
(この場合、道を譲った方に、事故の過失は問えない)

現在存命で、ステアリングホイールを握れる人々は、おおかたが教習所に通ってライセンスを取ったと思うが、基本的なルールを見逃して免許をもらったのか?

それとも、長年のカーライフの中で失念したまま、今日にいたったか?

他方、その真逆の不法行為。

最近は、青☞、のある信号交差点が増えているから、だいぶ良くなかったが、

直進車をヒヤリとさせて、右折する者。

右直同士の優先性を知ったうえで、命がけでダッシュ右折なら、まだ可愛いげもあるけれど、

ヘーキで当たり前のように、直線を横切っていくドライバー。

これはいけません。

しかも、きっと、いれてよ!!、と強調したいんだろう、

パッシングをしたりする。

(☞ありがとう、の意味でパッシングを使用する者がいるが、パッシングは、たとえば米国では、相手を威嚇する時にやるので、
海外ではご法度。
下手したら、相手が、ショットガンを持って運転席から降りてくる)

先日もこういうのに遭遇したが、

こういう場合、

いままでは助かったね、でも、次は保証できないかも、と思って心配になる。

では。

僕のカーライフ❶

ステアリング操作に、そこそこ機敏に反応してくれて、

走る、曲がる動作に、フラストレーションを感じず、

路面をしっかりとつかんでいる感覚が、腰や手に伝わってくる。

……それ以上は、〈車〉には望んでいない。

自動車の基本性能が向上している昨今、

だから、僕は、きわめて謙虚な車乗りだろう。

最近、車を変えた家人が、

― あたしの場合、車とのつき合いは、ス〇ルにはじまって、ス〇ルに終わる

…… と感慨深そう。

里山に近い坂のあたりに住んでいれば、一年中、アウトドアライフをやってるようなものだから、4駆、という保険はかけたくなります。

試しに、家人の新しい車を運転してみたら、

信号が青になると、〈前車発進〉とインジケーター内に表示される。

いいんだよ、こっちは一呼吸おいて出るんだから。

連続したカーブを、中央線ギリギリをトレースして抜けようとしたら、〈はみだし注意〉の警告音が鳴りだす。

他者の迷惑にならないような、自由な走行意思に楯突くような手厚さが、果たして、装備として必要なのだろうか?、と思うが、

これがウリになるような世情なんでしょうかね?

では。

大相撲に,八つ当たる。

知らないにうちに、春場所が始まっていた。

奇数月には興行がある、というのに、

いまは、御嶽海が前頭十枚目で勤めているといった一段落なムードと、メディアによる騒ぎ方の減衰もあってか、忘れてしまうんですね。

僕は、幕内で取るだけでも、たいした出世、と思っている。

だから、家人から、TVインタビュウの中で、

アナウンサーが、(言外にあきらかに) 三役から陥落したことを含んでおいて、

― いまの状況となった要因は?、と訊ねると、

運です、と御嶽海がキッパリ応えた、という話を聞くと、

その通り!!、と本気に、彼の肩を持ってしまうのだ。

露骨な誘導質問には、これくらいの返しでいいし、

御嶽海の場合は、真摯な意味で、〈運〉の一文字を使ったのだと思う。

加えて、僕が、大相撲に肩入れできない理由は、

❶制限時間一杯の立ち合いが常態化し、観戦に目を離せぬ緊張感のないこと。
一回目からの仕切りから、呼吸が合えば力士は立っていいのであるから、
義務的に、塩まきと仕切りを繰り返しているようにしかみえない。

☞ 内緒な話。
もともとは、放送する某局の、番組取り置き時間内に、取り組み全てがちょうど収まるための、巧妙なるしかけが、相撲そのものを変質させた説、を僕は採る。

❷立ち居振る舞い、といったことを持ち出す向きがあるにしては、力士に美しさを求める動きがないこと。

マワシの配色に気をつかうのなら、同じように、

出来る限り、身体には、バンデージやサポーターの類いは着用しないべきであって、

現横綱(四股名が出て来ない)の、両膝関節をおおう分厚いサポーターは見苦しいし、

かつ、その装着目的が、身体能力の補強であるならば、いくら、フェア精神が希薄な武道であっても、対戦において優位過ぎないか。

そこまでして勤めさせるのか?

興行(競技ではない)ならば、柔よく剛を制す、小兵の大物食いを狙って、批判覚悟で、

横綱の膝にケタグリを入れる力士が出て来るような、勝ちへの執着心を求めます。

では。

老いることとは、

肉体的に、いろんなところが衰えてしんどくなること。

たしかに、それはある。

でなけりゃあ、あれほどTVに、非科学的なもの言いで、健康や美容効果をまくしたてたコマーシャルがあふれるはずがない。

30分以内で注文すれば、とは、まるで、詐欺商法のタイムリミット方式ではないか。

(いや、詐欺のほうが真似たのだろう、オペレーターへつなぐには……、などと言うから)

だが。

ああいった乱暴な宣伝に飛びついてしまうのは、実は、精神が病んでいるからなのであって、

老化とは、ある種の精神疾患である、と考えざるをえない。

加齢がすすむと、かなりメンタルヘルスが変調、変質する(個人差はある)。

高齢者の行動を観察したり、自身の精神活動を冷静に振り返れば、これはもう、

僕のなかで、否定できない定説となった。

だから、〈老醜〉とは、精神が病むことについて言うのです。

我が物顔の身勝手な走行への怒り、

老人を介護する側のフラストレーション、

これらすべては、相手が健常なる精神の持ち主と、勘違いしていることに発する。

現代では、〈老成〉は幻想であって、

介護されて、それを感謝する高齢者が稀少であることを知らないと、

けっして高齢者を巧く扱えない、と思われる。

(年齢が上がるほどに、ありがとう、をしなくなるのが、一般的ですがね)

では。