信じるから,語る。

対象とする作品を、

ほめようが、けなそうが、

およそ詩を評する、ってのは、詩を信じているからに違いない。

詩の可能性を信じている、と言い直してもいい。

……、こんな当たり前のことが、このところ腑に落ちて、

それに気づかないできた、自分の迂闊さを感じている。

ただし。

作品を論じているようにみせかけて、なんのことない自分をのみ語るやり方に、食傷することも多い。

先日、宮沢 賢治を読み返していたら、次の2行からなる作物が、目を惹いた。

報 告

さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張って居ります

生前に発表された詩集『心象スケッチ 春と修羅』(1924年4月発表) に収まっているから、賢治お墨付きの、〈詩作品〉だ。

僕が或る詩人について考えていたから、

ふと、賢治が啓発をくれた、そんなふうにひとり決めしている。

では。

曝されて 白くなる。

一年ほど前のこと。

小学一年生に、

― 最近、調子どう?、と、(学校生活を念頭において)尋ねたら、

― ボーっと、過ごしている、と、笑いながら答える。

……なかなか洒落たことをいう、と感心した。

人間、考えることをやめると、〈時代〉に逃げ込みたくなり、

物事を見つめようとすれば、〈個人〉に迫らざるをえない。

ふと、そんな言葉が、口をつく。

年月に曝され、ものが漂白されると、

そこでは、個性が、押しつけがましくもなく、ただ静かにたたずんでいる。

果たして、そうなれるかな?

では。

嘘でも,かまわない。

人間の記憶を、もっともよく喚起する感覚は、嗅覚である

……いつか、家人が言っていた。

その出典は知らないが、

匂いや香りが、ひとの記憶を、呼び覚ます契機になることが多い、とか。

そのご説の真偽など、どうでもいいんだが、

クズ(葛)、ラベンダー、キンモクセイ(金木犀)の、それぞれの花の香りを知っていることを、大切にしよう、とは思う。

その金木犀が、9月30日に匂い出した (=開花した)。

涼しくなったことでもあるから、これから 1週間は、楽しめるかも知れない。

秋冷の頃の、ならわし……。

では。

贅沢にも,いろいろあって。

贅沢は敵、などとは、決して思わない。
(そういう世代は、もう多くはお墓に入ってしまった)

ただし。

あくまで、神がゆるし給う範囲内で、ヒトはそれを楽しむべきだろう。

とにかく、自分の分限をわきまえていないと、何事にも、洗練さが伴いません。

ご幼少、たしか、保育園の頃、聞かされた紙芝居。

ひとりの子供が、果実だと、味わうにどれがいちばん優れているかと、思案している。

あれは、皮を剥かないと、これは、タネを吐き出さないと……、

そうだ、無花果(いちじく) ならば、獲ってそのまま食べられるぞ、だから、いちじくが、いちばんだ!!

これが、実物を知る以前の、我が人生における無花果とのなれそめ。

庭の端、隣家との境に、いちじくを植えてから、(たぶん) 10年。

いまや、(おそらく) 数百の実をつけるようになって、その甘味に惹かれては、野鳥、クバンバチ、スズメバチ、コバエが、さかんに集ってくる。

自然をリスペクトする僕ゆえに、

彼らを避けて、かつ、高いところに成っているのは諦め、
朝夕、葉陰から熟れたやつを、ひとつ、ふたつ捥ぐと、

そっと割っては、そのまま口にふくんで、柔らかな果肉を楽しんでいる。

はて?

旧約聖書の、イヴとアダムが食した、命の樹の実とは、一体何だったのか。

具体的な樹木名は、記されていない。

この際、無花果でもいいや、などと、秋の空を見上げてはいるけれど、

これって、かなり贅沢な時間なんだろうな、と思う。

では。

〈詩〉ではない 何か。

吾亦紅、と書いて、〈われもこう〉と読ます。

秋の日に、桑ズミにも似たその花が、風に揺れている……。

自分もこうなりたい、というネーミングは洒落ているが、

果たして、そのお方、どうなりたかったのか知らん?

 

宮沢 賢治 (1896 ~ 1933 ) の死後、遺品の中、見つかった手帳に記されたメモのひとつに、

雨ニモマケズ、風ニモマケズ、で始まる、30行が在った。

この冒頭だけで、読む者を惹きつける賢治は、やはり言葉の達人。

けれど、案外、多くの人は、30行の終りまでを読んだことがないのでは?

であるなら、どこかで立ち止まって読むのも、ムダにはなりません。

僕は、その一節の、

イツモ シズカ二 ワラッテヰル、が気に入っている。

ただし。

これは、決して〈詩〉ではない。

理由は、作者が、詩として発表するつもりのなかったこと、これに尽きます。

賢治の詩に触れればすぐにわかるけれど、これを詩と認めないのが、賢治。

せいぜい、自分はこう生きたい、と書き流してみた、そんな記事です。

けれど、たとえ、

実際の賢治が、こういうふうに生きたかったとしても、

作者の生活態度と、その詩作品の価値とは、なんら関係のないのが、文芸のいいところ。

読む側が〈詩〉と思えば、それでいいだろう、って?

言葉による、気の効いた、斬新な発想や感覚の羅列。

いやいや、詩とは、それ以上のもの。

つまり、この世界を観る〈こころざし〉といったもの(補足しました)が、詠み込まれていなければなりません。

では。