今が勝負, の日々。

樹上、無数についた無花果(いちじく)の実。

それらが数日前から、一斉に熟しはじめた。

みどり一色だった実は、赤みを帯びて、

おしり(枝についていない方) の部分に穴が開き始めたら、そろそろ食べごろ、と収穫の心づもりをしよう(これも経験してわかるようになった)。

その穴はすこし大きくなり、そこからコバエが入って集っている。

中には、穴から、甘い液がしたたり落ちているのもある。

熟れたやつをつかみ、枝からもぎると、ゆっくりふたつに割る。

すると、中のコバエが飛び立つので、いなくなったのを確かめから、

口に含む……その美味よ。

そんなことを、日に2個、3個。

今の僕の日課……。

(量と熟すスピードで)フレッシュではとても食べきれないから、

10個くらいまとめて採ってくると、家人に頼んでジャムにしつらえてもらい、冷蔵、または、冷凍保存しておく。

気が向いたら、冷蔵庫から出して(あるいは解凍して)、

クリームチーズと一緒にブレッドに載せて、そして……。

あなたがツ〇ヤの棚を探しても、決して見つけられない希少種〈無花果のジャム〉。

しかも、レモン汁とシュガーのみでさらりと煮込んだ絶品。

こんな贅沢は、そうそうない。

と、ヘレン メリルのヴォーカルと一緒に楽しんでしまうのです。

と言ったところで、僕の口に入るのは、我が家の、無花果の実全体の、

おそらくは、10パーセント内外だろう。

あとは、野鳥と蜂ら昆虫の糧になるのだから。

〈You’d be So Nice to Come Home to〉(ヘレンは1955年にカヴァー発表)

家に帰って、あなたの傍にいられたら、それは、もう天国。

暖炉の火のかたわら、
冬の木枯らしを聴きながら、
8月の寝苦しい月を眺めながら……それだけが わたしの望み。

こういう歌唱に出逢えば、青江 三奈さんや、八代 亜紀さんが歌いたくなるのもうなづける。

でも、僕はやっぱり、ヘレンのほうがいい、今は。

では。

なぜ知っているのか?

高校生時代からの友人 K君から葉書が届いた。

……台風の後、まだ暑い日が続きます、御変りもなくお元気にお過ごしでしょうか。8月の展覧会は、ご来場いただきありがとうございます…で始まり、

最後を、〈御礼まで〉で終えている。

K君からは、そのひと月ちょっと前に、案内状をもらっていたので、

8月上旬。

僕は、小学3年生をふたり連れて、会場の松本市美術館へ向かった。

展覧会は、2階のスペースでやっていて、入場は〈無料〉。

滞在時間は、十数分程度。

来た痕跡は一切残すつもりもなかったから、記帳はなし。

幸い、(当番で詰めているであろう)主催者らも、入り口にはおらず素通り。

ならば、はて?

どうしてK君は、僕らの来観を知ったのだろう?

(僕と違って)教師一筋のキャリアを通した真面目な彼が、

まさか、たかをくくって、おそらくは来ただろうぐらいで、御礼の葉書を寄こすはずがない。

とにかく、早速、礼状に感謝する葉書をしたためて投函したが、

奥ゆかしい僕のことゆえ、露骨に、何故知ってるの?、とも書けず、遠回しに

形跡も残さずに非礼をいたしました……にとどめた。

ところで。

ジョルジュデ キリコの『不安を抱えるミューズ達』(1950年頃)の絵葉書を使うところなんぞ、気をつかってあって、K君らしい。

ダダイズムや、シュールレアリスムは、たしかに、

絵画(文学も)の、伝統な枠組みを通して味わう鑑賞法に一撃を食らわした。

これも芸術だ、これを味わえ、といった感じの作品が目立ち、

技法や技量は単なる手段であり、作品をとおして表現したのは〈思想〉なんだよ、という態度でしょうね、観ていると。

で。

K君が出品者のひとりであった、あの展覧会の作品。

絵画だと、すべて 100号、つまり、縦横が 1500mm以上の大作ばかり。

これくらい大きなキャンバスに描き込むのは、相当な手腕を要するし、

破綻をしているような作物はなく、要は、手馴れた描き手を感じさせた。

ただし。

僕が、物足りなかったのは、

その題材、その技法で、俺はこれをいいたい、と思える感じが、こっちに伝わって来ないことだった。

きっとそれとは、上述の〈思想〉に近いもの。

なぜ、そこに、半裸の女性を置いたのか?

彼女の存在、肢体を通して、何を言いたいのか?
憂鬱か、それとも、希求か、はたまた、悲嘆か。

こんな観方を、僕はいつの頃からするようになったのか?

なにを求めて、絵画と面と向かうのか?

そこをハッキリさせなくちゃあな。

今後、機会があれば、K君にはチキンと話せるように。

では。

もっと真面目に巧くなれ。

生れてから一度もウソをつかずに生きてきました、と言える人に会ったら、

その誠実さの前に、きっと、ひざまずいてしまうだろう僕なのだ。(これが前提)

……昨日。

携帯に、ショートメールで、着信が残っていた。

みると……(そのまま転記)

~NTTサポート~
料金等の確認に関するご案内が御座います。
050-5479-1969
こちら宛てご連絡下さい。……の内容。

(発信番号は、本文の番号とは別)

これなんか、200%、詐欺入り口なアプローチに違いない、と思うから、

もちろん捨ておいてある。

が、最近は、嘘をつくにも、手抜き❶

かつ、工夫するあまり、嘘の王道から外れた❷ものが多い。

❶だいたいが、数円のショートメールで済まそうという魂胆がいけない。

むかしは、葉書を送り付けて来たもんだ。

住所を調べる手間も惜しむのか?

❷僕の経験からすると、ウソというのは、そこに非日常の突拍子のなさが含まれているからこそ、

相手のこころに生じるであろう疑念の幕を、より通過しやすい。

だから、料金等の確認に関するご案内……では、まわりくどいだろう。

おそらく網にかかる対象者の拡大を狙っている文言だろうが、

ここは、滞納料金に関するご案内……と、単刀直入にドキッとさせてしまうべき。

おいおい。

暇なのをいいことに、

詐欺をメシのタネにしているような人間に智恵をつけて、どうする?

では。

怒りの自由研究。

テーブル上の〈公報まつもと〉を見ながら、

― 今月号(8月)で特集しても意味ないじゃん、とずいぶん御立腹のご様子。

巻頭の、今月の自由研究は『観光』を指して、家人が、

― 夏のシーズンは先月からなのに、今月に掲載するのはもう遅いでしょう。

たしかに、わからなくもない。(事実、家人が読んだのは、8月末に近い頃)

ただし、これほど鋭く反応するのは、

どうやら。

この夏、小学三年生に協力した際の、

〈自由研究〉に投入したエンス―ジアズムの余熱が、いまだ残っているために違いない。

同学年の従弟が教えてくれたところでは、

自由研究には、踏むべき起承転結があって、

❶なぜ、研究しようと思ったのか (テーマ選定の理由、動機)

❷じっさいに調べたこと (調査内容)

❸わかったこと (結果)

❹まとめ (感想など)  ……の流れが定番のようだ。

実際、公報の記事もそれを模するような体裁になっている。

ただ、致命的なのは、

多数の市民に披瀝するほどの濃い内容でなく突っ込みも大甘。

市政の担当者の顔写真をそえてあるが、プライヴァシイを曝す、という意味では好ましくない。

課長級の公務員が、紙面に引っ張り出される必要もある?

市職員の仕事でないし、だいたい、(本心)彼らが望むはずもなかろう。

自由研究……。

でも、自由だから僕はやらない、という選択はゆるされていないようであるから、どこが自由か?、と思うし、

せいぜい、家族の協力や指導はどうぞよろしく自由にやってよ、の自由なんでしょう。

日本の学生は、こうやってでも一律に強要しないと、

自分発でなんらかの世界を掘り下げることをしない、と思っているのか、教員は。

でも、放っておいてほしい、僕は。

では。

消えていいものよ。

13日は、迎え盆。

父母の骨が眠る墓所に、花と線香を手向けに行ってきた。

その寺は、かつては農村だった集落に囲まれた立地。

松本へ移住してきた父が、実家と同じ宗派でと、母の死をきっかけで区画を分けてもらい、墓を建てた。

生涯一サラリーマンを通した父が、購えられたであろう、こじんまりした墓だ。

墓地の中を歩くと、くぼ地に、ただ石をいくつか積み上げた墓が、点々とする(江戸時代以前のものらしい)。

他方。

ここ20年以内で更新したと思わせる、でんと墓誌が付きそう、それはそれは、巨大で豪華なお墓が構えている。

これだけの仕立てだと、かなりの高額な出費に違いないが、

格式ある名家であれば、このような旧い地域では、それなりのモノを建立して保つメンツもあるんだろうな、きっと。

決してヒガミではなくて、

こういった投資を、それこそ、つまらん散財というのではあるまいか(石材屋さんには申し訳ないが)。

石ころを積んだだけの無名な墓地に眠る者と、冥福にどれだけの違いがあるか?

誰もがウンザリしているが、それでも、続けているならわし。

それが、形骸化した残存物と見なされて、簡略、省略されていることだってある。

自分ならヘタに呼んでもらっても困る、という真情に、流行病をきっかけに当然になった、ごくごく内輪だけの、埋葬と告別式なんかが、それ。

あとは。

国家の名においての殺害がちっとも止まぬ世にあって、

勝利によって国威を高揚させるようなオリンピックなど、もう要らん、と思っていて、

千歩譲って、政財政的に無理なく開催可能な2~3の都市の、持ちまわりで結構。

だって、周りに訊いても、熱心に画面を観ていたなんて話はないし、

僕など、女性マラソンの、5分間くらいを、画面をじっと観ていたくらい。

あとは、出勤前の、時計がわり(にもならないが)。

どんな競技も、発端はそうなんだろうが、

アソビから始まった種目が、アソビのままのいでたちで、プレイされるのをなんとなく観ているのだ。

だが、考えてみると、

いつもの街着でやっていてもらったほうが、〈お国のため〉といった義務感、悲壮感もないから、

それが、いちばん健全かも。

では。