長野戦プレビュウに代えての,胸算用。

このところ、庭では。

これが芽吹いた、あれが咲いた、と事欠かない。

一昨日は、アゲハ蝶が、葉山椒の樹のまわりを盛んに飛ぶ。

花にら、あやめ(5/4)、そして、鈴蘭、などなど。

植物を、カタカナ表記にする作法の、そのいわれも知らないが、

いまや、店頭には、外国語名の草花ばかりが並んでいて、

渡来の品種で、日本の庭がこうも埋め尽くされるのが、果たしていいのか?

そんな疑問の僕なんであるが、

古来から在ると思っている草花にしたって、

大昔に異国から持ち込まれているわけだから、長い目でみれば、どうでも良いことかも知れない。

……さて。

延期になったホーム開幕戦(第4節)については、

明日(5/11)の結果を踏まえてプレビュウすることになるだろうか?

どっちに転んだとしても、あまり意欲が湧かない(だろう)。

ひょっとしたら、書かないかも知れない。

長野パルセイロのサッカーに、ほとんど興味が湧かないのもあるけれど、

山雅界隈で、プライド、意地といった言葉が持ち出されると、

なおさら醒めている自分が居て、これは僕の傾向性=資質のゆえだから、もうどうしようもない。

フツーに、自分流で勝利をめざせば、それで良し。

できれば日程を、11日と振り替えできればグッドだったが、

水曜日のナイトゲームになったので、

僕の予想だと、7,000人前後が基底で、

そこに、EPSONさんのご厚意で、1,000人が乗っかるから、8,000人かな。

これは、土日開催とほぼ同レヴェルの入場数であって、

クラブが気張っている10,000人には、あと2,000人……。

努力が報われて、たとえ、10,000人を確保できたとしても、

当初からの、予想される集客減の約 4,000人分は、残りのホームゲーム14で埋めるしかない。

ゲームあたりで、300人の挽回。

その際、ファン&サポーターのほうが、

〈チームの戦績が芳しければアルウィンに足を向ける〉と、条件を口にするのだけは、無しね。

では。

(おそらくは) 10年に一度の悲報。

ゆかりを感ずる人々の訃報を別にすれば、

かなり気が滅入る今日、なんであります。

清水港の、河岸の市にあった定食屋さん〈魚河岸 どんぶり君〉が閉店した、との報せ。

お店の入っていた建物を、界隈のリニューアルにともなって駐車場にするので解体するため、と。

ご亭主亡き後、女将さんと、ふたりのご婦人で切り盛りしていたが、

ご自身のお齢も考えあわせた末の、店じまいであったのか。

あぁ。

これで。

エスパルスと対戦する機会がふたたび巡ってきても、

もはや、〈三色丼〉をいただくことも叶わない……。

 

動画は、特段の他意もなくご紹介。

こういう作品が創られるようになると、

2時間もつきあわされる映画などは要らなくなるし、

もっと、内面と向き合う時間を持てるようになる、ってのは思い過ごしか?

では。

危機感がない ?

対応の不徹底を、面と向かって責める場合に、

ちょくちょく〈危機感がない〉が使われるようだ。

あるいは、緊張感がない、とも。

どちらとも、相手のココロの持ち方を、こちらが勝手に描写して押しつけるやり方なので、

言われたほうは、おおかた、ムッとくる(だろう)。

こういうのは、他に、〈何々じゃあないですか?〉という、一見、下手に出る質問形のやつ。

いや、あんたがそう思うだけだろう?、と言い返したくなるが、反論するのも面倒だから、会話はそのまま流れていく。

相手に注意したければ、油断するなよ、ぐらいが爽快でいい。

さて。

その〈油〉のこと。

他県よりも リッターで 10円前後は 高いガソリン価格。

なぜそうなのか?、を知りたい某県の首長が、

特段の理由はありませんと回答した、石油商業組合の幹部に、

あんたがたは危機感がない、と言い放ったんだそうな。

地方政府に、ビジネス上の原価構造を求めるような捜査権はないわけだから、

どういう回答を期待していたのかがわからないが、

ともかく、危機感うんぬんを問う相手が違っている。

良否はともかくとして、

自分たちの商売の存立のため、もしもの話、価格維持のメカニズムを運用してきたのなら、当の業界には、危機感は十分にあったわけで、

数十年、高い高いと愚痴はこぼすが、なんら具体的な行動に出なかった、どこその県民、行政の指導者、民の生活安定を語る政党と議員、

こっちのほうが、よほど危機感など、なかったのではないか。

もちろん、やりとりの高みの見物を決め込む、この僕も。

では。

藪の中こそ、これからの常態。

映画『羅生門』(1950年 大映)は、

芥川 龍之介 作『藪の中〛(1922年発表) をその下敷きにした脚本。

で、芥川は、今昔物語集の一話をモチーフに、その短編を書いた。

……時代は平安の世、藪の中で、ひとりの侍が殺され、ひとりの貴人(女性)が凌辱される。

検非違使の庭(お白州) に召喚された、当事者、目撃者、死霊、そのすべての証言がたがいに食い違いをみせて、事の真相はまるで、藪の中のように判然としない……という話。

以前。

僕は、事実(実際に起こったであろうこと)と、真実(起こってもらいたいこと、そう願うこと)とは、きっちりと画すべき、と述べた。

その考えによれば、

芥川の作品は、どうこう議論の対象にもならないと思うが、

過去、文学者間の論争がけっこうあったらしい。

読み手がどう解釈しようと感じようと勝手であり、

そして、〈真実〉が事件当事者によって異なることなど茶飯事なのだから、

それが、もしも、読後感の、釈然としなさから起きた議論であるならば

作者(芥川) の、テーマを語る熱意とテクニックの不足だと、僕は思う。

さて、かように。

真相さがし、原因(と結果の連鎖) 追求は、

自然科学が大きな顔をするようになった、18世紀以降の、人間の悪癖だが、

昨秋以来の、米の(小売における)価格上昇。

僕など、積極的に報道を獲りにいかない者にも、

メディアの画面では、スーパー店頭では、いままでの2倍。

困った顔の消費者の声をひろっみせるのが、いきおい目に入ってくる。

専門家と称して、ボケたカメラの向こうから語る御仁の解説の、まぁ、腑に落ちないこと、まことに夥しい。

要は、価格が 2倍に跳ね上がったのは何故か?、に対し、誰もキチンと応えない。

ならば。

わからんものはわかりません、と言ってもらったほうが、よほど爽快だ。

備蓄米を放出します、といっている国家にしたって、

やってはみるが……程度の語り口で、いつまでにどうします、という目算もないのだろう、きっと。

農林水産省が、今年のはじめ、チョッとした調査(聴き取り程度、捜査でなし)をやっている。

これによると、米の生産量は、ここ数年、700万トン半ばで、安定的に推移。

(おそらく、消費量にもそれほどの動きはない)

ただし。

従来、JAなどの大手集荷業者が、米を一手に吸い上げて流通回路に流してしたシステムに、ジワリと、それから逸脱する〈動き〉が起きている。

つまり。

農家が、直接に小売業者や消費者へ売る、とか

中間では、支配的な大手だった卸売りから、より中小規模の仲買者に売る、なんかが、それ。

悪意でみれば、農水省が、この調査を読む者を、

既存流通が、それ以外の流通経路に侵食されつつあるのが、根底要因であって、

各既存流通の中で感じられた不足感が、物の流れを停滞(在庫の積み上げ)させ、

それが、過敏反応により末端価格を押し上げた、と導きたいのか、と邪推してしまう。

しかしですよ。

米を、独占的な流通支配のシステムから解放し、

生産者の収入が、自由化によって増加すれば、この傾向は、まことに慶賀ではないか。

かといって。

小売業にしても、いつまでも黙っていないだろうから、(消費者は嘆くだけ)、

たとえば、ツ〇ハドラッグと統合して巨大化したウ〇ルシアのようなところが、生産者から自分のところまでの一貫流通をつくるかも知れぬ。

ピンチこそは、チャンス。

では。

虚言(ウソ)こそ,真実。

仮に。

僕らが、感覚器官をとおして、実際に起こったのを見聞きしたことを〈事実〉と呼ぶとしよう。

対し。

過去に生起した事実に接した経験知にもとづいて、人が、

起こってもらいたい、起こるべきである、と願う、そのことを〈真実〉と呼ぶ。

実際には無かったが、現実ではほぼあり得ないが、

世の中、こういうことがらが起こっても良いではないか、と僕らが思うことです。

……ところで、

僕の家から、スープが冷めないほど近くに、

今年の一月に、ご長男を亡くした女性( A子さん)が住んでいる。

ある日、彼女から、

今度、息子の遺影を鴨居に飾りたいのだが、なにせ高い場所だから(こちらは女手のゆえ)、手を貸してもらえまいか、との電話があった。

あぁ、お安い御用です、都合の良い日を教えてもらえれば、すぐにでも伺いますよ、とお答えした。

で、つい、先日のこと。

A子さんとは(電話で)よく話すらしい、B子さんと、家人が電話で話した。

その際、B子が、

この前、A子から

お宅のダンナに、息子の写真を飾るのを手伝ってもらいたいと頼んだら、

あぁ、ちょうど良い機会だから、その時に、ご長男を偲ぶ集まりでもやったらどうか?、と勧められた、と聞いたわよ、とのこと。

― まさかぁ。うちの亭主が、そんなことを提案するわけ決してないわ!、と家人は即座に否定した。

帰宅した僕は、その話を聞いて、いや、そんなことは言ってないなぁ。

こじんまりと内輪ではあっても、キチンと葬儀で弔っているのだから、

そういう、いわば、無意味な虚礼などは、僕にとってはまったく論外のこと。

……さて。

この、まるで僕を騙ったような顛末は、あまりに唐突で、印象深かったので、考え込まされたのだが、

単に、これを、A子の虚言(ウソ)で片づけるのは、間違っていて、

(誰が提案しようとも)亡き息子を偲ぶ会は、彼女にとって、ひとつの〈真実〉ではあるまいか。

つまり、起こってもらいたいこと、なのだ。

そして、なぜに、そういう集いが A子にとっては必要か?

おそらくは……、

そういう集いの中、周囲の者は、息子を失った自分に弔意を表すだろう。

その弔意こそ、彼女にとっては、自分の現在(喪失と悲しみ) に払われるべき同情と敬意であって、自分とは、それを受けるにふさわしい存在なのだ。

つまりは。

自分の存在価値を、僕の提案という形の架空な話を作り上げることで、他の人に認めてもらいたかった。

……どうも、人間は、かなり手の込んだことをやってでも、自分を価値化したいらしい。

もちろん、この〈真実話〉は、とっさにA子の口から出たはずで、彼女自身に、創作のカラクリなどは、まったく意識されていない。

今後、A子と話す時はかなり言葉に注意しなくちゃあな、とは思ったが、

世の、優れた文芸作品は、作者が、こういった〈真実〉を巧く駆使しているのだし、

事実と違うことを、それがすべてウソで押しとおすだからダメと断ずるほどに、僕は他人に冷淡にもなれないし。

こうやって、人間本性のホンネと深層に触れるのは、経験する意義もあることかも知れないぞ。

これからも、どこかで生みだされる彼女の〈嘘〉= 真実を、だから、ただ責める気にはなれない。

ただ、哀しいかな。
虚言を使ってまで愛と関心を求める者は、周りからは、ますます疎んぜられる。

……もちろん、

事実 = 真実の一本槍で生きたい者にとっては、以上、わずらわしいお話です。

では。