公理は、反証をゆるさない。

〈公理〉とは、簡単にいうと、

純粋数学(幾何学など)にあって、大、大、大前提となる決まり事のこと。

例えば、次のようなもの。

異なる 2点を結ぶ直線は、ひとつ(1本) しか存在しない。

これが、数学という学問の理論的な出発点(のひとつ)、なわけです。

……こう書いてくると、

昔、学校で、数学が苦痛だった方々、あるいは、いま苦しんでいる方々は、

これ以上、この投稿を読む気が失せるかも知れませんが、これからが、面白いところなので、どうかおつき合いを。

で、この〈公理〉が宣言され、成立する根拠とは、何か?

それは、経験的、直感的に、(ほとんどすべての人間に) それが真実、つまり、そうに違いない、と感得されるから

ですから、〈公理〉は、その性質上、決して反証をゆるさず、拒絶する。

エマニュエル カント(1724~1804年、独の哲学者)は、

こういう純粋直感、つまり、〈決めつけ〉を土台とする数学は、学問として、もっとも成功している、とまで言っておりますな。

さて、ここまで来て、僕が、ふと、思うには、

我が愛するクラブの周囲にも、公理のようなものが、見え隠れすることがある。

過去の経験による直感にもとづいて、

いまだ、5代前の、偉大なる指揮官(とそのサッカー) を待望してやまない未練、がそれ。

決めつけ、反証を拒絶する、なんてところは、まさに公理、と言えましょう。

……18世紀の哲学者を引用すると、ファン&サポーターの生態も、説得力がありますね。

では。

七年を要した陥落。

他人の企業経営を、外から眺めて、余暇を埋めてるに過ぎないんですけどね。

パ〇コ、イトー〇ーカドー(高宮)、と続いて、

ここへきて、老舗の 井〇百貨店(深志) が、それぞれ来年に撤退(閉業)……。

乱暴な言い方をすれば、

2017年秋、松本市中央に開業した、イ〇ンモールが、これら店舗に、最終的な引導を渡した、ということでしょう。

皆さん、大きな声では言いませんがね。

当時、イ〇ンモールの出店計画があらわになると、地元の商工会は、

あのあたりの交通渋滞を問題視するようなフリをして、その開業をストップせんとしていたのが、思い出されます。

渋滞はいまや日常茶飯事となり、

それがソックリ、他のお店には閑古鳥を呼び込んだ、ということか。

じわじわと、けれど、確実に七年かかって衰退は進み、

他方、市内 3つの地区で商売を制した、イ〇ンは、ひとり勝ち。

次は、そのドラッグストア部門である、ウエ〇シアが、その方面を押さえにかかる図式。

こんなのが、目に見えていますが、

生き残るためには、セブン&〇 ホールディングス傘下の、雑貨を扱うロ〇トが、

今度は、その商売仇の、イ〇ンモール内に開業するわけですから、

こういう節操のなさは、高度に資本集中化した社会では、ごく当たり前と思わないと。
(ロ〇トは、僕にとって、あそこにしかない品物があるから助かるんですが)

で、ますます寂れる市中。

狭隘な土地に、ギュウギュウな博物館を作っちゃったり、

かつ、

いまの場所に、市庁舎を更新しようとしているのは、一体、何なんだ?

ジャガー氏に言わせると、

― (国宝)松本城の近辺に在るのがステータス、と考えているのでは?

はてはて。

では。

決心ひとつ。

ついに!!、

家人が、この春、庭に、ルピナスを導入したのである。

ことあるごとに、あの花房が、

爬虫類の皮膚のよう(蛇腹) だと、忌み嫌っていたのだったが、

どんな心境変化なのか。

思うに、イングリッシュガーデン風にするには不可欠な花、と思い直したんだろうか?

ところで、ルピナスは、仏蘭西語だと、Lupin。(発音は ☞ ルパン)

引退した怪盗アルセーヌ ルパン(初代)は、彼の庭園に、ルピナスを植えていた、と物語にある。

では。

希望の花、淡い追憶。

1890年の2月。

サン レミに在った精神病療養所で生活を送っていた、フィンセント ファン ゴッホ (1853~1890年)に、弟から一通の手紙が届く。

生れた長男には兄と同じ名をつける、という文面。

ゴッホはすぐに、新しい画の制作に取りかかる。

画家自身が、快作と認めたこの画は、弟家族に贈られ、

現在は、ゴッホ美術館(@オランダ)が所蔵する。(サイズ73.3㎝×92.4㎝)

蒼空を背景に、アーモンドの樹と、その枝に咲く薄紅色の花。

ヘブライの伝統では、アーモンドは、春一番に咲くことから、〈先駆け〉の表象を与えられている。

療養所から眺める風景の中に、たまたま花を咲かせたアーモンドの樹が在って、ゴッホが、それを題材に選んだに過ぎない、とは思うが、

通俗な評論はきっと、甥っ子の誕生と命名に、

希望と喜びを感じたゴッホが、春の誕生のシンボルであるアーモンドを選んだ……とでも、こじつけるだろう。

実は。

拙宅の庭にも、アーモンドが植わっていて、この7日に開花。

花より団子好みの僕のことゆえ、種子、すなわち、アーモンドの実がなったら食してみるじゃん?、と家人に提案した。

すると、

― 日本で売られている苗は皆、ビター(苦い)種で、その実は有毒、と聞いたよ、とのご返事。

猛毒らしいから、さすがの僕も、ただただ、樹と花を眺めるだけの日々を送っているのです。

こんな曲でも聴いて……。

ユタ ヒップ(1925~2003年)は、ドイツ出身の女性ピアニスト。

なかなかの味わいですよ。

曲は〈Dear Old Stockholm〉(1956年のライブ収録)

では。

僕のカーライフ❸

邦画ではあまり記憶がないのだが、

欧米の作品だと、

乗ってるクルマで、登場人物の階級、知性、職業、ケチ、放蕩なんかを、巧く表現しているのに出会う。

例外は、刑事物。(社有車ですから)

でも、そのまた例外が、コロンボの、プジョー403 だったりする。

たしか、カミさんは、新しいワゴンかなにかが、愛車だったような。

さて。

上の写真は、ビル フリゼールのアルバムジャケットを、そのまま転載。
(わかったら、著作権で告訴されるかも)

ガス ステーションには、僕のご幼少の、ここでは書けない悲しい思い出があって、

反面、それゆえに、懐かしい情景。今でも、時々思い出す。

給油所が、ロマンティックに、そして、リアルに出てくるのは、

ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(1964年、仏西独合作) の結末。

雪の舞うラストの色彩美は、始めて観た当時、さすが、仏蘭西、って思った。

そのフランスもよくわからずしての頃だから、若気の至りです。

あの結末。

かつての熱き恋人が、その後、それぞれ家庭を持って数年が経ち、給油所で再開する設定。

現実は、男女どっちに苦く、悔恨はいづれにありや?

― つまらん深刻ぶった論評が、湧きそうですが、

そんな答えを、映画は出そうとしていないし、観る者にも求めていないように、僕は思うんですがね。

で、現実の僕は、と言へば、

直進するつもりで、信号が黄色に変わった交差点で、

― どうして?、いまのは行けたでしょ。

と、助手席の小学一年生に詰問されては、

― いやいや、右折しようと前に止まってた車の横に、あまり間隔もなくて、
しかも、向こうからは、強引に右折しようとする対向車が来てたじゃん、

と、エクスキューズに、忙しい。

では。