2次キャンプはどうやら……。

改めて、

鹿児島における〈1次〉キャンプについて、もろもろリリースされた。

~2月6日(11日間)、とあるから、

リーグ開幕(@さいたま) 対アルディージャは、

鹿児島からそのまま移動しての参戦になる。

ゲーム後には、一旦、帰松して、一段落。

週が変わって、

おそらくは!!、静岡県のどこかで、2次のキャンプイン。

すくなくとも、藤枝、磐田の 2戦は、キャンプ地からの移動下で闘う。

で、2/22週にキャンプを切り上げ、

その週末の、アウェイ〈信甲ダービー〉に臨む。

……こんな感じ?

これから、ヒドイ降雪がない限りは、天然芝で多く、ボールと身体を動きしたいですね。

ところで、

かりがねは、3月からは、天然芝が使用可、でしたっけ?

そうでないと、甲府までの頻繁な出稽古になりそう。

秋春制になるにあたっての、いちばんの課題、

冬季の、本拠地における、屋根付き天然芝の練習場の入手を急がないといけません。

では。

騙しのテクニック その❷

他国を攻撃、その元首を拉致すると、自国に連行して裁判にかける。

それくらいは、

〈世界平和のための警察官〉を自負する某国ならば、やるだろう。

が。

それを横目で見ていて、

その無法行為になんの論評もできずに、

或る高官は、(他国の)民主主義化の促進は我が国の願い、とか、言い出す始末。

なんだよ、こりゃ。

問題の、稚拙なすり替えであり、

みづからと、みづからの民を欺く、ダマシのテクニック(以下だが)ではないか。

これが、力強く、しなやかな外交の中身だとしたら、国民もずいぶんとナメられたものだ。

映画『カサブランカ』には、

ドイツ軍に対し、毅然と対応できない警察本部長(フランス人)が、

主人公(ハンフリー ボガード)に、

― あんたは、ナチにおもねるのか、と糾されると、

― いまは、ドイツ(東だった?) から風が吹いてるんでね、と言い返すシーンがある。

ここまで正直になれ、とは言わないが、

まるで、ジャイアンの横暴にすくむ のび太の心情を、

マスメディアに書かせるのではなく、

為政者みづからが、素直に表明できるようなテクニックを身につけることを、切に願う。

……おおかたの場合、

人は、他者をだますよりは、自分(ら)をだますことにおいて、より巧妙な、エセ論理を弄する。

なにかと理由をつけ言い訳をして、徳性の要求するところと義務から逃げるなど、僕なんかザラですから、

現政権の二枚舌を、責める資格も無き身ですかね?

では。

騙しのテクニック? その❶

昨年末に、ある方と、固定電話同士で話した。

通話を終えてから、しばらくして。

気づくと、その方の携帯から、僕の携帯に ショートメールが届いている。

― 先ほどは、不愛想な応対で失礼、特殊詐欺の警戒のためとはいえ、反省しており、以後、気をつけます。

特段に不愛想、とも感じなかった僕だったのだけれど、

― ご丁寧なメールありがとうございます、
今や固定電話着信の9割方は、詐欺か、アンケート装いの商法ですから。
気になさらないでください。
固定はもう要らないかなぁ、と妻と話すことがあります。

……とお返しした。

詐欺の方法も、いろいろと開発され尽くして、いまや、一段落なのか、

あるいはまた、こっちの耐性や、真偽に関する眼が、幾分かは肥えたためなのか、

特に、最近は、留守電にセットしておいて、そのメッセージを再生(あるいは、リアルタイム聴取)していると、

詐欺に引きずり込む手法が、あまりもに〈雑〉なので、二重に憂鬱になる。

自分を名乗らずに唐突にはじまる、

冒頭アナウンスが切れて話題が始まる、

〈〇〇〉(ここが聴き取れない)、では、どうぞ~!〉。

そんなのばかり。

たとえ、それが〈ホンモノの〉国政選挙の意向調査だとしてもですよ、

仕事が粗い、荒い、乱暴です。

その業界人として、

もっと発想を豊かに(=意表を衝くことにおいて)、

智恵を絞って、人をだますシゴトに精進すべきだと思う。

でないと、せっかく、ダマされるほうだって張り合いがない。

では。

そのならわし、因習にして。

 

やめて数年を経ても、なお。

ありがたいことに、小生宛て、

年賀状をくださる友誼に篤い方がいらっしゃり、

10枚ほどの便りを楽しんだ、この新春。

……今年の特徴は、なんといっても、

僕の娘息子たちの世代において

2通と、伝聞によればあと 1通で、計3つの家族が、

― 失礼ながら、来年からは年賀状を控えさせていただきます、とアナウンスをしたこと。

僕みたいな、現役を退いた感ありの者(所帯)ならばともかく、

現役、働き盛り、育児ざかりの年代が、すでに、

年賀状のやりとりを因習とみなし、これを、廃そうとしているのが、

いまや潮流であるのですよ。

こうなると、約100年ほどは続いた、年中行事としての年賀状の風習は、

これから、またたく間に消失することは間違いない。

家庭から、固定電話がなくなる速度と、おそらく期を一にして。

もともとが年賀状なるもの、

ほんらいならば年始伺いに参上すべきところを、葉書一枚で済ませるのだから、

それを廃するのは、べつの、もっと簡単、迅速な手段が日常化している昨今、

特筆すべきことでもないか。

では。

歴史から学ぶにしても。

― 歴史を学ぶと、ひとが、いかに歴史から学んでいないかがわかる。

これを、多くの者が述べていて、

そのひとりがモンテスキューだったように記憶する。

俺は、凡人とは違って、思慮深いから学べるのだ、といった自負が、

おそらくは、こういう事を言わせている。

けれども、

過去と似たような出来事が、ほとんど偶然に、あるいは、前後に継起するに過ぎない日常にあって、

行動を起こすために、過去がそれほど明確な羅針盤として参考になるのかいな。

ましてや、

学校教育の〈歴史〉が、年代別な出来事についての知識習得に過ぎず、

その知識の過多を、学業の評価基準とする世では。

昔と変わらないのは、せいぜいが〈人間の本性〉くらいで、

その人間性(その善悪や快不快)を、どう考えるのか?は、その時代時代で、ずいぶんと違うからだ。

つまるところ、その時になって最善、次善と思われる道を選ぶ、というのが正直なところだろうか、少なくとも僕にしてみると。

その瞬間。

或る哲学者が語ったように、それをあたかも当然の〈義務〉として行えたら、潔くていいなぁ、とは思う。

が、実際は。

おこなった結果に対する他者からの評価、評判、そんなものがあらかじめこころに忍び込むのが実情だ。

これも、人間性における弱さ、と引き受けることだって、

人間の強さのひとつだろうに、と居直りますかね。

では。