なぜ真田 幸村は大坂に散ったのか? その❸

さて。

僕がもっとも推したい要因。

それは……、

❸甲府っ子の、武田家臣として人生をマットウしたい心情。
真田家は、武田家に臣従(祖父の幸隆時代 1546年~)し、幸村の父昌幸は、信玄の重臣であった。

このため、幸村は、甲府で出生した、生粋の甲斐っ子

父昌幸(三男)が、真田の家督を継ぐのは、1575年長篠の戦で、長男と次男が戦死したためだが、その際、信州の所領に同行したとして、幸村は、10歳前後になっていた。

武田家(勝頼)が、織田/徳川連合軍による甲州征伐によって滅亡したのが、1582年3月。

これにより、真田家は、織田に従属。

ところが、その3か月後には、信長があっけなく本能寺に倒れる。

権力の空白が生じたスキに、東信の所領の回復をめざすこととなる昌幸は、

徳川家康との対立すったもんだを経て、秀吉により、豊臣の家臣となる。

で、1600年の関ケ原の戦いでは、西軍側として敗れ、

昌幸幸村父子は、高野山に幽閉される身分となった。

以来14年。

僕の想像ですが、

幸村は、成長してからも、あっちこっちと人質生活を送るなか、ずっと甲府っ子のアイデンティティを棄てずに、

したがって、武田滅亡を画した片割れであった徳川 家康に対し、報復の機会を待ち望んでいたのでは、あるまいか。
(もうひとりの首謀者 信長は、幸村の少年時代にさっさと他界した)

〈信繁〉という名は、川中島の戦いで戦死した武田武将にちなんでいるとも言われる。

真田藩の歴史とは、強大な権力者には、臣従や対立を繰り返しながら、

いかに自己(一族と所領)を生き延びさせるかの、智恵と武闘のやりくりの歴史だった。

幸村自身、その生涯において、真田の地を温めたことは、ほとんどなかった。

だから、果たして、自分を、信州っ子と思っていたかどうか?

……いずれにしたって、

大坂城の奮戦がなく、あのまま九度山の土となっていたら、

真田左衛門佐信繫の名は、歴史の中にまったく埋もれたことは間違いない。

享年 49。

その落日は、1615年6月3日、麦秋の頃。

では。