新味なきことを,恥じる。

― なんだよ。
山際 淳司流の評論から、一歩も踏み出していないなぁ、この投稿。

と、つぶやいては、(他人様の) スポーツ評論を読んでいる自分に気づく。

アスリート本人へのインタビュウを織り交ぜながら語る、スポーツ物の多くは、

1980年代、『江夏の21球』(by 山際、1981年発表)で開発された、

心理面の丹念な分析、ひとつの〈ストーリイ〉の読み取り(実際は創作)、多分に情緒的な筆致などを、ほぼ踏襲している。

あれから、45年。

半世紀近くが経っても、〈山際式〉を乗り越えるような、新型の評論は現れない。

……と嘆いてみたところで、

自分にしたって、

当日の天候、風物の移り変わり、自分の体調、そんな書き出しで始まる、

藤原 定家風な日記と、

そうは変わらない関心と気分で、ブログを綴っているではないか。

定家の『明月記』は、1180年から1235年の間に記述されているので、

なんだよ、もう、800年前の手法に縛られたままなのだ。

それを、小学校時代から、なにかにつけて刷り込まれて育つ日本人。

さらに。

自分の意見を偉そうに語っている、その語り口は、

なぜに、こうも、風流と品と礼節に乏しいのだろう、と他人を責める。

こういうのは、

吉田 兼好『徒然草』の、俺の慧眼で世を語ってやる、という見下した態度、

そのままではありませんか。

徒然草は、14世紀半ばの成立(伝聞)。

こっちにしたって、7世紀前に、随筆として語られた悪口、批評の思想を、ほとんど出ていない。

あぁ、何をか言わんや。

それでも、厚かましく書くんですけどね。

では。