凡そ、文学、絵画、音楽などの作品は、いったん作り手を離れてしまえば、鑑賞する側の特権で、自由に味わえる。
むしろ、創った側の説明などは、うるさくて、不要。
だから、美術展で、解説用のイヤホンを借りて会場を回っている御仁を見るたび、
急ぎ情報を仕込んでいる、にしたって、
せっかく〈画〉そのものに打たれたくて来ているのに、
余計な雑音で、感嘆の眼を曇らしてどうするの?、と思う。
が、しかし。
或る楽曲を、あんまりに身勝手に解釈していることもあって、
おいおい、それは違う、という例を、ひとつ挙げておきます。
早い話が、外国語(ここでは英語)を、日本語に直すにおいて、かなり素養が足りないゆえの、誤訳かな。
〈I Shall Be Released〉は、ボブ ディランが 作った曲(1967年中に)。
ザ バンドの歌唱(演奏)によって名声を得て、多くカヴァーされてきた。
歌詞(英語)をたどれば、これは、
冤罪で刑務所に入っている男の、プロテストそのもの。
たとえば、映画『ショーシャンクの救い』(邦題☞ショーシャンクの空に、1994年公開、米)の、無実の罪で 20年間監獄に居た主人公、そんな境遇が思い浮かぶ。
実際、世には多くあるに違いない冤罪のひとつを訴えようと、ディランが作った。
歌詞の冒頭……(萬年訳出)
とって代わらぬものなどない
行く手は 短くはない とは聞くが
俺は 忘れはしない
ここ(牢獄)に 俺をぶち込んだすべての奴ら、その顔ひとつひとつを。
おれの光がやってくる
西から 東へと向かって
そうさ、俺は釈放されるべきだ
すぐにでも ただちに
英語は詳しくないけれど、shall、という言葉に、道義的に強い意思が込められていることだけはわかります。
この歌が描く情景を、表現したかったがために、
(ザ バンドで) ヴォーカルを担当したリチャード マニュエルは、、喉から絞り出すようなファルセットを、歌唱法として採ったのです。
結論。
いくら、美しいメロディーラインであろうとも、
漠然とした日常の不自由さ、束縛感。
そういったものからの解放、といったような、
甘え切った心情の表現としては、この楽曲を聴けない。
では。