息子との会話。
― (萬年) 昨季は降格が(制度的に)なかったんだから、最後まで布さんでやってよかったんじゃあないか?
― (息子) いやいや、それはない。
ゲームを観て愕然、守備で決まり事をまったく作ってなかった。
以前から在籍していたプレイヤーでさえ、キチンとした守りをしなくなっていたからね。
何気ない雑談の中のコメントだが、けっこう示唆され、考えさせられた。
チームとして一体となるには、首脳の指示の下、統一されたスタイルと手法で戦うのは当たり前。
が、実際に、ピッチ上でリアルタイムの流れを感じながらプレイするのはプレイヤーではないか。
勝つため、勝機を手繰り寄せるため、瞬時の判断で、当初の決まり事に背いてでも、ここは!、というプレイをすることは否定されるのだろうか?
つまり、目的にかなえば、一見逸脱した、個人発案のプレイは、許されるのではないか?
1964年の東京オリンピックで、市川 崑 (1915~2008年) は、公式記録映画のメガホンを取っていた。
閉会式はおそらく、開会式と同様に、国旗を先頭にした入場行進ではじまるだろう、と予想した市川は、スタジアムに配置したカメラすべてに対し、冒頭のシーンでは、カメラを回さないように指示を出していた。
ところが、実際閉会式が始まったら、各国の旗手たちが最初に出て来た後、整然とした行進などなく、すべての選手役員らが混然と入場してきたのだ。(その後のオリンピックはこの演出を踏襲しているらしい)
まったく予期せぬ事態に、市川は顔面蒼白となる。
自分の指示で全カメラがそのシーンを撮り逃したからだ。
ところが、後日フィルムを回収してみると、監督の指示などどこ吹く風。
ほとんどのカメラは閉会式のカオス入場を記録してあった。
……、数十年前、某公共放送のTV番組で、市川自身が回想していたのを聴いた。
自分は、ボスに背いてでも自分のプロ意識と論理に従う撮影者を信頼する、その意味で、すべてに従ってくれるだろうとは信用していない。
― そんな総括だったように憶えている。
信用と信頼、なかなか深い話ではありませんか。
まぁ、こういう関係が成り立つ職場は、上司部下がそれぞれミッションに忠実であって、しかも成熟した大人でないと成り立たないでしょうね。
山雅というチームが、そういう組織であることを望みます。
いままで以上に、自分たちが責任を引き受けて戦うべき来季であるはずだから。
そういう意味でも、リーグ降格だから、~は引責辞任せよ、という論理には軽々には賛同できませんね。
では。