毒を食らわば 皿までも? (敬愛の啄木)

一度手を染めたら、トコトン悪事をやりとおす決意、をあらわす諺。

そういったしたたかさは、たとえば、文学者だと、石川 啄木(1886~1912年)を想い出す。

たかだか 26歳で死んだから、青春の傲慢と向こう見ずが、その言動や作風にどうしても垣間見られるので、そんな印象が強い。

啄木の日記を読んでいたら、恩人とも言える与謝野 晶子(1878~1942年)の容姿についても容赦なく書いてあって、笑ってしまう。

友人や知人から借金しまくった結果、残された負債が、現在の金額にして約1,400万円だったという事実が、啄木を、身勝手な借金魔とする評価を作ったようだが、僕に言わせれば、そういうことを調べて公表した、最大貸主(約150万円) の宮崎某の人品のほうだって、どっこいどっこいではないか。

だいたいが、友人に貸す時は、金銭も友情も失う覚悟でそうすべきであろう。

もちろん、後ろ指を指されるような生活(と人格)は、その業績をなんら貶めるものでもなくって、短歌形式を使って彼がやったことは、やはり相当な〈革新〉であった、と思います。

ところで、なんで、啄木なのか?

たまたま、最近、その『時代閉塞の現状』(1910年執筆の評論、ただし刊行は没後) を読んだからなんですが、その末尾は、

― 時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

……、で終わっている。

けれどもさ、時代に没頭しなければ得られないものもあるんだろうに、と思いつつ、この一文が僕の中で繰り返されている、そんな今日だ。

生前に刊行された唯一の歌集『一握の砂』(1910年) の中に 。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

萬年の場合は、せいぜい

友がみなわれより聡(さと)く見ゆる日よ
アイス買ひ来て
妻と獲りあふ

……くらいかな?

では。