御領岳 の記憶から (早すぎる甲府戦プレビュウ)

4/17は、ホーム甲府戦だ。
磐田、甲府と、なじみあるチームとの対戦が続く。

なんだかんだで、リーグ戦も第8節、まだ5分の1なのか、あるいは、もう5分の1なのか。

ところで、ルノワール氏から、今季は、白馬47で滑り納めでした、とうかがう。

47とは、4シーズン×7デイズ、すなわち、1年365日楽しめるリゾートに、という決意を表すネイミングらしい。(ルノワール氏から宿題をもらって調べたのだ)

そのゲレンデから、五竜岳の眺望が素晴らしく、この季節、頂上直下には、
〈武田菱〉の雪形が現れるならわし。

……、なるほど。
確かに、菱型が4つ組み合わさって、おおきな菱型を作るデザインは、〈四割菱〉(よつわりひし)と呼ばれ、これこそは、武田家の家紋。

戦国の世、信濃の国は、その武田氏の領地だった。

ゆえに、武田菱が浮かび上がる、あの頂こそ、〈御領岳〉と呼ぶにふさわしい。

ところが、世が移るにつれて、御領がなまりながら、いつしか五竜となった、という説は有力です、とこれまた、ルノワール氏からの受け売り。

1582(天正10)年2月3日に始まった織田 信長による甲州征伐は、3月11日、天目山の戦いで、武田 勝頼・嫡男 勝信の一行が自刃したことによって終結。(武田宗家の滅亡)

この間、たったのひと月ですよ。

いくら勢力にかげりがみえていたにせよ、世にその名を馳せた武田軍団は、高遠城をのぞいて、組織的な抵抗をほとんどすることなく壊滅。

実際は、離反と織田側への寝返りの連続だったわけで、見事なまでの内部崩壊だった。

人は石垣、といった信玄の組織論は、いったい何だったのか。

萬年は、そこに裏切りへの不快感よりはむしろ、甲斐の民の、リアリズムに徹した現状認識の素早さ、をみます。※
(信長という敵が、いかに強大だったか!)

武田菱をクラブエンブレムにいただく、ヴァンフォーレと対戦する時はですね、甲州人の冷徹な現実透視、ここを、絶対に外してはなりません。

440年も経って、いまさら被支配者根性で言う訳でもないが、しかし、山雅の公式さんよ。
いいかげんにしてもらいたい。

もはや甲信ではなくて、信甲と銘打つべき立場を認識すべきであり、そのくらいの気概を持ちましょうよ。

あえて、ダービーと煽りたいのならば。

※甲州人の名誉のために、付記を。
織田軍の武田侵攻の端緒にあって、寝返りによって織田連合軍に決定的な優位をもたらしたのは、木曾谷の領主 木曾 義昌であった。
正室として信玄の三女を迎えているが、実質的には武田の支配下で不満を募らせていて、武田と結ぶことの将来的な不安も大きかったに違いない。織田氏の勢力下であるほうの魅力に惹かれたのだ。ただ、織田側に通じたことにより、義昌は、人質として差し出していた母、側室、嫡男(13歳)、長女(17歳)を勝頼に処刑されて失うことになった。

では。

【コメント】
☞ルノワール氏より (4/10 20:28)
近々に開催される
甲信ダービーにリンクする話題が欲しい
ならば
白馬47&白馬五竜でしょう
って事で
私、生意気ながら
47の由来を萬年さんに質問したのでした
スキーヤーでも47の由来を知らない人は多い
なのに萬年さんの研究熱心さ、流石です!
HAKUBA47
は登録標章
よって、アイドルグループ
○○46
◎◎48
ってのは有るけど
47は白馬47だけですね
白馬47が平成2年にオープンしたときは単独のスキー場でした
2年後に
隣合わせの五竜とうみスキー場と協定締結
両スキー場を山頂で結ぶリフトを新設して
共存、共通リフト券を発売!
白馬八方尾根に勝るとも劣らないビッグゲレンデになりました
両スキー場が互いにいがみ合うのではなく
お互いの発展のため手を取り合いました
あれから30年今では日本を代表するスキー場に成長しています
遠い昔
武田と上杉は別の国の主
それが当たり前ですが
現在は同じ白馬の地で
白馬五竜と白馬47が共存共栄しています