答えは無数、竹藪の中 (本能寺政変論)

某公共放送が一年かけて放送した、日向守 明智 光秀が主人公のドラマが、つい最近終了したらしい。

光秀といえばとにかく、主君であった上総守 織田 信長を本能寺に襲った逆臣として、人口に膾炙するその人。

となれば、その顛末がどう描かれたのか?、というのが、興味の大半。

で、家人が観ていた様子なので、物語のラストがどんなだったかを、聞いてみたんである。

すると、だいたい次のとおり。

秀光は信長を本能寺に攻め、死に至らしめた。
その理由については、歴史上提出されている仮説を、おおよそ丁寧に網羅して描いてはいたが、いづれかが決定打、としてはいなかった。
信長が亡き者となるについての秀吉の思惑にも触れていた、という。

さらに、現実か幻視かも説明されない一瞬で、光秀が山崎の戦い(1582年)の後にも生き延びていた、ともとれるようなシーンもあった。

家人評は、こんな。

― 観ている人の判断に任せるような趣きだったけれど、それなりの、つまり、好い余韻が残る、って感じだわね、あたしにとっては。

なるほど、なるほど。

それくらいが、公共放送における冒険の限界でもあったのかも知れぬ。

信長の遺体が確認されていないことを根拠にして、信長生存、とまで突っ走る戯作性は期待できまい。

あるいは、『忍者武芸長』(1962年完結)のように、信長を襲った後、秀吉軍に敗れ、ついに京都の小栗栖(伏見区)で百姓に殺害されたのは、実は、秀光の影武者であった。
本物は、どこかに遁走したのであった、という結末も、やっぱりアウトに違いない。

推定の素になる材料を落ち度なく示し、あとは観る者に判断させる手法を採ったこの度のシナリオ。

そうなったことの真の理由は、いやいや、もっと深いところにある。

おそらくは、こういうこと。

すなわち、織田 信長に仕えた期間をのぞくと、その人生には、かなり謎の多い光秀を描くとなれば、今の社会が、これだ、っという明快な正解を許さない、のである。

なぜなら、行動や問題がこれだけ複雑になってしまった現代社会では、これが唯一の正しい答えである、という思考態度はもはや通用しない。

せいぜい、答えはいくつかある、というのが現実で、かつ、そのどれもが、圧倒的な正当性を主張できないでいる。

なによりも僕らが、唯一絶対の正答を期待することなくして問題を読み解こう、という態度でいるのだ。

戦国時代とはいいつつも、髷を結った、現代人の感性を持った者たちが行動するドラマ相手ならば、なおさらだろう。

では。