取ってつけた言葉、腑に落ちる言葉。


日曜日の朝8時から、西田佐知子の亭主が司会をやってるTV番組がある。

ある時、政治に関するトピックのところで、中西 哲生(サッカー解説者)に司会が意見を求め、それに対し、中西も臆することなくコメントしていた。

おいおい、それは、武田 鉄矢に対し教育について語れ、と問うに等しいくらいの暴挙だろう。

コメンテーターとは、すべてのトピックについてかならず発言しなきゃならない仕事らしい。

自分はスポーツ解説者だから、このトピックについてコメントするほどの見識はありません、と辞退することもできないとは……。

さて、朝鮮日報は、南韓の右派メディア。
(たとえば、漢字復活を提唱している)

その記事(日本語版)に、そうだよなぁ、と感心した言葉が載ったので、そのまま転記する。

死はそれまでの人生の総括だ。どのように死ぬのかを見れば、どう生きたのかがわかる。まともに死ぬためには正しく生きなければならない。
公的にみて朴元淳の人生は偽善的で破廉恥だ。彼が『清廉な人間』ならば、決してこんな結末になるはずはない by 張 琪杓

※7月9日、みづから命を絶ったソウル市長。政権与党は清廉な人物とのキャンペーンに忙しい。

かなり厳しい言葉。
けれど、主義や信条を越えた、爽快さに打たれてしまう。

周囲に臆することなく正々堂々とモノを言う人が、だんだん少なくなった。

もちろん、SNSの匿名性に隠れて言いたい放題なのは、論外。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/2 23:33)
私の目標とする逝き方。
医者が患者にかなり状態が悪い事、そして後1ヶ月持つかどうかと告げている。
私と私の妻は青ざめて聞いていたが、当の本人は表情ひとつ変わらない。
医者が病室を出た途端「おい○○や、そこの本取ってくれや」
いたって普通の口調である。
その本は、安曇族のルーツを探ると言ったような本だった。
ベッドの周りは、新聞、雑誌、本が山積みだ。
それから、一月後寝ているのかと思ったら亡くなっていた。
死ぬ直前まで、自分の生きる姿勢を崩さなかった義理の父。
そんな義父も一年前、彼の飼い犬が私の家で亡くなった時は号泣していた。
私もそんな死に方が出来たらと、思うが、人間の大きさが違いすぎる。
はてさて、どうなることやら。
急がずその時を待つとしよう。
では、また。