歴史から学ぶにしても。

― 歴史を学ぶと、ひとが、いかに歴史から学んでいないかがわかる。

これを、多くの者が述べていて、

そのひとりがモンテスキューだったように記憶する。

俺は、凡人とは違って、思慮深いから学べるのだ、といった自負が、

おそらくは、こういう事を言わせている。

けれども、

過去と似たような出来事が、ほとんど偶然に、あるいは、前後に継起するに過ぎない日常にあって、

行動を起こすために、過去がそれほど明確な羅針盤として参考になるのかいな。

ましてや、

学校教育の〈歴史〉が、年代別な出来事についての知識習得に過ぎず、

その知識の過多を、学業の評価基準とする世では。

昔と変わらないのは、せいぜいが〈人間の本性〉くらいで、

その人間性(その善悪や快不快)を、どう考えるのか?は、その時代時代で、ずいぶんと違うからだ。

つまるところ、その時になって最善、次善と思われる道を選ぶ、というのが正直なところだろうか、少なくとも僕にしてみると。

その瞬間。

或る哲学者が語ったように、それをあたかも当然の〈義務〉として行えたら、潔くていいなぁ、とは思う。

が、実際は。

おこなった結果に対する他者からの評価、評判、そんなものがあらかじめこころに忍び込むのが実情だ。

これも、人間性における弱さ、と引き受けることだって、

人間の強さのひとつだろうに、と居直りますかね。

では。

ジョージロイヒルの本命作。

ジョージ ロイ ヒル (1921~2002年)監督の作品といえば、

『明日に向かって撃て』(1969年、原題は、強盗ふたりの名前を並べている)

『スティング』(1973年)

この2作品が、(日本にあっては)

ポール ニューマンとロバート レッドフォードの取り合わせもあり、もっとも馴染み深いのかも知れない。

萬年的には、『スラップショット』(1977年)も忘れてもらっては困る、という評価。

だが、だが、しかし。

ロイ ヒルにあっては、

『スローターハウス5』(1972年)こそ、最も敬意が払われるべき作品と、今回観て思う。

そもそも、

カート ヴィネガット Jrによる原作(1969年発表)が、想像力豊饒な、SFコメディ文学である分だけ、

それを踏襲した映画のほうが、その評価を落としているのではないか?、と僕は邪推するんですが、

これが、かなりな見ごたえがある。

タイトルは、(独語で)〈第5屠畜場〉のこと。

これは、主人公ビリー ピルグリムが、第二次世界大戦中、ドレスデンの街でドイツ軍捕虜であった際の、代用収容所の名そのもの。

異星人の力によって時を超越して移動してしまう彼は、戦場と未来、あるいは終末までをいったり来たりして、物語は進行する。

映像もいいが、

グレン グールドによるバッハ演奏曲を随所に用いているあたりが、この監督の趣味の良さ!であります。

令和キネマ座の、準ベストテンにいれなくちゃあ。

もっとも僕が感心するのは、

明日に向かって~と、スティングの間で、

この作品を撮っていた、という仕事の旺盛ぶり。

さらに、主人公を演じたマイケル サックス(1948~)は、

〈ザ シュガーランド エキスプレス〉(1974年 スピルバーグ監督)で、

監獄破りの若い夫婦の、人質となって連れ回される巡査役で出ていましたね。

では。

年の瀬の 書初め ……。

画像版権所属先☞ジョータイム

新しい年(元旦)を迎えたら、時代はもちろん、人にも、齢がひとつ加わる。

……といったならわしが消えて久しい。

〈数え年〉の風習はもはや廃れ、〈満年齢〉がフツー。

しかし。

存在する者を、0(歳) とするのは、どうしたって(数学的に)不合理であって、

生まれたての彼は、 1歳(自然数を持つ者)でなければ、オカシイのだ。

たとえば。

或る年の、2月1日に生まれると、そこで、1歳。

翌年の元旦が来る、つまり、年越しをすると加齢して、2歳。

次に、(この場合1か月後に) 誕生日が来ると、3歳。

こういうのが数え年による年齢加算で、本来、七五三は、これでおこなう。

……ま、きょう日、どうでもいい、小うるさいこと。

それが証拠に、

昨日は、

小学三年生と一日一緒に過ごしたけれど、冬休みの課題として、

〈書初め〉に手をつけた。

本来。

新年を寿ぎ、新鮮なる決意の下に、筆を持つのが書初め(のココロ)なんだろうが、

そんなことたぁ、いまや関係ない。

つり正月、の字句ふたつを、お手本に従って、何枚か書く。

筆の入れ、止め、撥ね、抜き。

それを意識して、最後まで気持ちを込めるように言うと、

なかなか上手く書いているので、感心する。

僕もつきあって、筆を借りて、何枚か書いてみた。

そして、

新聞紙をひろげた上に、書き上げたものを並べて、墨が乾くのを待つ。

あとは、自宅で、(もっと細い筆で) 自分の名を入れるだけ。

さて。

作品をしまう段になって、

家人が、小学生に向かい、

― こっちのも、しまって家へ持っていかないとね。

― 待ってよ、それは、僕の書いたものです。

小学生に才能があることも確かだけれど、

萬年の筆才も同じレベル、なんでありますね。

では。

エレンバースティン 三部作とは。

久しぶりに、

『夕陽のギャングたち』(1971年 伊西米合作映画) を観返した。(令和キネマ座ベストテンのひとつ)

ま、ロッド スタイガーの、良さ(=巧さ) を再確認するだけで儲けもの。

この作品は、当初。

セルジオ レオネは脚本などの裏方にまわり、みづからがメガホンを取るつもりはなかったらしいが、

主演のロッド スタイガーと、ジェイムズ コバーンが、

レオネが監督をしなければ役を降りると主張して譲らなかったために、

仕方なくデレクトしたんだそうな。

予定で、監督候補にあがっていたひとりが、

ピーター ボグダノビッチ。

1971年には、

その監督作品『ザ ラストピクチャショー』が公開されていて、当時売り出し中。

☞ もしも、ボぐダノビッチが監督したら、どんな夕陽のギャングたちが出来上がったのか、まことに興味深々ではあるけれど。

で。

この『ラストショー』(邦題) に出ていたのが、

エレン バースティン (1932~ )。

この作品では、

オスカー(助演女優賞)を、クロリス リーチマン(1926~2021年)が獲っているから、劇中の迫力では、リーチマンのほうにどうしたって分があるが、

エレンも、オスカーとゴールデングローブとにノミネートされたようだ。

その後。

『エクソシスト』(1973年公開)、『アリスの恋』(1974年公開) と、

順調にキャリアをつくった時代の作品を、

『ラストショー』とあわせて、

エレンバースティンの三部作、と呼んでおこう。(異議があってもかまわない)

そのアリスの恋を、これまた、最近に観た。

原題は、Alice Doesn’t Live Here Anymore (アリスはもうここには住んでない)

これが、なぜに、アリスの恋となるのか、とは思うが、

案外、名訳かも知れない。(実際に、映画をご覧になるとわかります)

クセの強い役者も配されていて、面白く観た。

劇中歌に、エルトン ジョン作『Daniel』が使われている。

この曲は、1973年の発表だから、

主人公が運転する車中、ラジオから流れ来る〈新譜〉という設定なのだ。

エルトン作、とは言うが、歌詞はバーナードトーピンが書いてるので、ふたりの共作と呼ぶべき。(だいたいが、そう)

スペインに旅立つ兄ダニエルをうたう内容。

トーピンの後日談によれば、ベトナムからの帰還兵について語りたかったらしい。

……以上、70年代初頭の、クラシカルムービーたちの話。

では。

花道を,共に闘うチャンスと責任。

昨夕のこと。

― ねぇ、ねぇ、来て、石﨑さんのインタビュウやるから、と家人が声をかけた。

居間に入ると、

TV画面に、新監督就任会見の様子が映っている。

社長、スポーツダイレクター(強化統括)、石﨑 信弘氏の御三方でお披露目。

ふむふむ。

氏が、

どうやらこれで、最後の現場指揮(=監督として)になりそう、ともおっしゃっている。

もしも、そうであるならば、

僕らファン&サポーターは、

百戦錬磨の指揮官の、いわば、花道を、一緒に戦う機会に遭遇できるわけであって、

また、同時に。

我らのサポートの力で、指揮人生のクライマックスを援ける責任を引き受けることになる。

つまりは。

これから、うかうかできない数年に臨む、ってことで、よろしい?

次は、コーチの陣容か。と思いつつ、

1.5季シーズンパスの申し込みをするのです……。

では。