心にとめないことの 価値。

伊丹 万作 (1900~1946、映画監督、脚本家、画家)は、

その文章が、平明で簡潔、とにかく、読ませる。

亡くなる前の 8年ほどは、病臥(結核)の生活だった、と聞く。

その奧さんは、

亭主の稼業とする映画を、

観ないことはなかったが、それほど興味もなかったらしい。

或る時、原 節子が、伊丹をその自宅に見舞った際、

― どなたさまですか?、と応対したくらいだった。(と万作が書いている)

〈原 節子〉と聞いてもピンとこなければ、この女優が、1930年代から 50年代にかけて、日本映画界でどれほど売り出していたのか?、調べることをおススメします。

古代ユダヤの王ソロモンは、(その著書と伝わる『伝道の書』の中で) 言う。

人の語るすべての事に心をとめてはならない。
これはあなたが、自分のしもべのあなたをのろう言葉を聞かないためである。
あなたもまた、しばしば他人をのろったのを自分の心に知っているからである。

こういう境地には、なかなか達せないものだろう。

けれど、身につける価値のある人格に違いない。

もちろん、

僕が、家人の言うことをロクに訊きもせずに、トンチンカンな失敗をして叱責を受けているような失態とは、

まったく違う、もっとハイレベルな話なのだが。

では。

生きのびる目当て。

師走になったので。

互いの生存を確かめるのと、

(年賀状を配した身だから) やんわり、年末の挨拶にかえて、

旧友ふたりと、メールでやりとりをした。

来年は、東京で、

アンドリュー ワイエス展があり、

ダヴィンチ(ルネサンス)の作品が観られそうなので、それを狙って、お会いしましょうか?、と送ったら、

ひとりの方からは、

ファン ゴッホ (夜のカフェテラス)も愉しみにしてる、

それと、ワールドカップも、と返信があった。

そうなのか。

すると、僕的には、一年かけての3大美術展として、そこまでは、生きのびる目当てになる。

ワールドカップのほうは、Jリーグが秋春制となるタイミングと重なるから、

いままでと、ひと味違ったものになるのかな。

ただし。

ご贔屓のチームがあると、

どうしたって、そちらに目が行くから、

一歩醒めて観てしまうんだろうなぁ。

では。

遅くなってごめんなさい (北九州戦レビュウ❹おしまい)

出社すると、
― ブランケットはもらえたの?、と挨拶され、西が丘には不義理したことを釈明するはめに。

しかも、ゲームから4日も経って、フルタイムでDAZN観戦とは。

怠惰で申し訳ありません。

さて。

双方が、最後はロングボールで相手の最基底ラインを狙う、ってのは、

僕からすると、大味なサッカーに感じられ、どうもいけない。

たんに好悪の印象に過ぎないんですがね。

常にゴールを狙う、という意味では、まったく素晴らしい姿勢だけれど、

村越 (前節は アンツバ)の超ロングシュートは、そういうゴールもあっていい、くらいな評価にしておきます。

サイドを深く侵してのクロスに反応してのゴール。

それで、彼我が、1点づつを応酬したのですが、

ああいったゴールを多く観たい。

それにしても。

途中投入の #7馬渡は、上手くて、巧い

ゲーム局面で、やるべきことを承知しており、時間を賢く使える頭脳は、何時だって、チームに必要でありましょう。

ゲーム総体を評せば……、

尻上がりに山雅のほうにテンポの良さが生じて、観ていて面白かった。

このゲームに関しては、交代策は、ほぼ的中。

逆に、北九州からしたら、

あれほど機能していたその右サイドの突進を、後半になってあまり使わなくなったおかげで、山雅に勢いが傾いた、と思う。

終盤になって、

思い出したように、再び右サイドに展開するようになると、

山雅ディフェンスを翻弄し、ことごとくチャンスボールが供給されたのに!!、です。

これは、ギラヴァンツが、#66 高橋 大悟を途中投入して、

中央エリアで、その視野の広いプレイを使おうと努めたことの、いわば、負の取り分だった。

その意味では、増本さんの、ミスに近い采配か。

でも、高橋(町田からのレンタル)は、本調子でないのかどうか、中途半端な活かされ方でした。

山雅が、食指を動かしてもいい才能、と思いますけど。

では。

今年の不満はここまでにして (北九州戦レビュウ❸)

どうやら、来年は、1.5年のシーパスになりそう。

……と思いつつ、今季の総括をしておきます。

クドイと言われても、 来シーズンにつながっていくだろう事柄にフォーカスするため。

〈能動的にボールを動かすサッカー〉との、当初ふれ込みではあったが、

では、ボールを握って、どうやってゴールを目指すか?

について、チームとしての方法論、定番的な決め技が、最後まで不鮮明だった。

観る側からすると、ボールを保持した瞬間、その場限りの、選手のセンス的な対応でやっているので、味方を捜しての、コンマ何秒かの逡巡を常に感じた。

練習における連携の裏付けが感じられて、

あぁ、こういうことか~っ!!、と感服させるゴールシーンが少なかったなぁ。
たとえば、アウェイ群馬戦の、安永のゴールのようなやつ。

例外は、コーナーキックを含むセットプレイだが、ゴール比率は昨対より低い。
ま。
総じて攻撃的なスタッツ、シュート数、コーナーキック数など、昨季より減じ、攻撃的な野心がシュリンクしてしまった。

〈前後の切り換えが機敏なサッカー〉をめざしていたはず。
これは、リジットな陣形を保持して、攻守において先手をとることを意味していたと思うが、そこが、ゲームを追うごと、相手に引き伸ばされるままに、緩んだように思う。

後手にまわってしまうから、そこを挽回しようとファールが増した、と診る。

ボールに鋭く迫るのと、ファールを犯すことは違うはずで、反則ポイントで下位に沈んだのは、主体的なサッカーに不足した証拠。

勝ちを引き寄せるためのゲームプランの貧しさ
攻める守る、行ったり来たりを、遊ばず懸命にやっていたかも知れない。

が、

上に書いた〈決め技〉のないことによる(シュートまでいけない)攻撃の挫折と、

相手の攻撃に後手で対処することに追われ、ゲーム局面の読みと仕掛け、時間管理が希薄でしたね。

〈能動的〉を掲げて、自分らのやることにのみ焦点をあわせたって、

ゲームは、相手の出方が大きな要素なんだから、

逃げ切るだけの得点力がないならば!!、そこをもっと工夫してもらいたかった。

でないと、勝ちは、これからも、なかなか拾えません。

〈山雅らしさ〉への逃避。
ファン&サポーターや、役立たずのメディアが、懐古の情から、これを言うのは仕方ないとして、

クラブやチーム当事者が、この用語を使う場合、

実は、内容(実質、中身)がわからず、一生懸命やりますくらいにしか聞こえない。

僕からすると、
この言葉の意味合いとしてハッキリしているのは、〈弱者のサッカー〉に尽きる。

相手よりも、より走ること、だって?

走る、走らないを言うのは、おそらくは、50年くらい遅れたサッカー観であって、

どうやって、こっちが(準備しておいて)有利に始動するのか、

相手を仕方なく走らせる状況にするのか、そういうことを、そろそろ語りませんか。

山雅らしさを、闘争力や熱心さ(精神論)に求めるのは、もっとご勘弁

それを、みづからの専売特許と思うところに傲慢と呑気さがあるわけで、

ゆるい集団だった、なんてタワゴトをきょうび言ってるようでは、笑われますよ。

こういう取材の低意が胡散臭いのは、

ゆるい=悪戦績、スパルタン=好成績、といった対照を、暗に、公式として明証的に印象づけること。

こういう図式は、疑ってかからないと。

たとえ、(組織が)ゆるくてもきつくても、

最高のファンサーヴィス、つまり、勝利で魅せるのが、プロフェッショナル。

ツヨクナル、はどこへ行った?

もちろん。

萬年はあくまで、強者の風貌をしたサッカーを観たい。

……以上、今シーズンの不満は、これにて打ち止め、とします。

では。

ひとりひとりにありがとう (北九州戦レビュウ❷)

まづは。

先日、現役引退を発表した町田 也真人へ。(ギラヴァンツ所属)

14年間の、プロ選手生活、お疲れ様でした。

1年でしたが、山雅のために闘ってくださってありがとう。

これから先の幸多かれと祈ります。

(当時、ぜひ彼を獲るべき、と思っていて、現実化したので、僕の思いは深い)

さぁ、いよいよ。

契約満了が、つぎつぎリリースされ始めると、

ある意味、指揮官の交代よりも格段と、ファン&サポーターにとって切実な話題。

山雅のエンブレムを身につけてくれたあなたがたに、心よりありがとう。

1年遅れの、

霜田イズムで集めたチームの解体が始まる……。

では。