未完の完成〈ロートレック展から〉

 

去る17日の夜になって。

あぁ、前売券を入手していなかった、と気づく始末。

それにしては、なぜか、柄にもなく、

展覧会の初日に、

会場の松本市美術展に出向くことになってしまうとは……。

実をいうと、

小学2年生と年中児の、ふたりと遊ぶ日であったので、

まぁ、いいか、

美術展なる〈場〉についてのトレーニングにもなるし、とコジツケしたわけ。

実際、会場内ではヒソヒソ声で話しかけてくるし、走り回って周囲を困惑させることもなかった。

これには、

並んでいる作品が、画用紙に鉛筆での素描がほとんど、

しかも、その題材が、人物の横顔、馬、などとわかりやすく、

年少の心にも、すんなり入りこんだ事情も大きかった。

僕が、ロートレック(1864~1901) の素描をまじかで観るのは初めてで、

かなり新鮮だったけれど、作品群を前にして感じたのは、

すべてを描き込もうとせず、一瞬の表情や対象の動きをとらえようとする技量のたしかさだった。

未完の完成、そんな言葉が、創作態度についてうかがわせる。

画用紙(あるいはスケッチブック)を、抱えながら、

瞬時のデッサン(クロッキー的)で対象をモノにする、そんなスケッチ手法を偲ばせた。

あくまで、リトグラフ(石版画)のための準備としての下書き、という動機が、細部まで精緻に描き込まないことをさせたか?

だから、本番とは、石版に向かって、リトペンシルで描くことだったのかも知れん。

(実は、どうやって石版に描いたかの、作製現場の実際については、解説も読んでいないので、確証がありません、お赦しを)

その石版に描かれた画を、転写することで、ポスターやパンフレットが作成、出版されたとなると、

ロートレックは、浮世絵でいうところの、絵師と彫師を兼任したアーティストの先駆者、ということになろう。

さらに、作品を前にすると、

ロートレックは (37歳で早死したせいもあろうが)、

そもそも、自分が〈画家〉という職業一本で生きようとは思っていなかったような、そんな直感に撃たれたが、これは、あくまで僕の個人的な決めつけ。

場内では、写真撮影(フラッシュ使用は不可)が許されていてありがたく、

しかも、小品が多いゆえに、くどい解説で邪魔されない展示会であることはには、おおいに好感が持てる。

敷居が低い。

だから、都合がつけば、明治34年にこの世を去った画家の世界に触れてみることをお奨めしたい、特に、テーンエイジャーには。(財布にもやさしい)

ところが。

帰宅して撮った写真を並べてみたら、ほとんどがボケた出来上がりで、落胆。

こうなったら、再度訪れて、すべてを撮影してしまえ。

では。

秋春制は,すぐそこまで。

年が明けたから、

もう来年は、春秋制秋春制への移行時季だ。

春から夏(初秋)にかけては、2部と3部リーグはエリア分割による特別大会をおこない、
(☞ この特別大会の結果による、昇降格はない)

その後、中断を経て、秋春制による、2026/27シーズンの本番が始まる。

春秋制秋春制のもとでは、

12月あたりから1月過ぎにかけて、ウインターブレイク(厳冬期の中断期間)が設けられる。

ちょうど、今の時季で、

その間も、トレーニングが安定的におこなえる環境と設備、この整備が、いまから急がれる。

つまり。

2か月弱、どこで、どうやってチーム錬成をおこうなうのか?

南国の、温暖な地でミニキャンプを張るのも一手だとは思うが、

それを、これから秋春制が続く限り、ずっと繰り返すのか?

和歌山と鹿児島でのキャンプインの手前、

(かりがねの芝は養生期ゆえに)

さまざまなグランド、たとえば、地元高校のまで借りて、放浪しながら凌いでいる現状をみていると、

できれば、この地に、

降雪/降霜、厳寒に耐えうる設備と芝。

たとえば、可動式屋根つきの天然芝グランドを用意できるのが、いちばん良い。

初期費用はかかるだろうが、将来、その都度の遠征費を要しない。

南信あたり、遠州との県境だっていいのでは?、その地を山雅の影響力下における。
落合 博満のように、昼神キャンプとか。

最悪。

東海地方でもいいわけだ、我が山雅が、占有的に使用できるグラウンドが確保できれば。

ひょっとしたら、リーグ肝入りで、集合的な施設を創ることもあり得るだろうが、

クラブが自前で持てれば……、と先のことも考えてしまう。

では。

いつも そこに在る。

僕の知っているところで、または、知らないところで、

世界は さまざまの死でいっぱいだ。

それを、あたかも、自分が看取るの、支えるのと、どれほど傲慢なんだろう、人間は……。

 

勝利だの……敗北だの……これらの言葉には、意味がない。生命は、こうした表象を超越して、すでに早くも新しい表象を準備しつつあった。
(『夜間飛行』1931年刊、サン テグジュペリ著、堀口大學訳)

秀歌だと思う、しかも、これくらいの低さで歌ってもらうと、その良さが断然に引き立つ。

では。

ひらめきは,突然にやってくる。

……というのは、ほとんどあり得ない。

かのアイザック ニュートン氏は、

つねに地球の中心に向かう力(重力)について思案し、仮説を立てていたからこそ、

たまたま、リンゴの実が樹から落下するのに出くわした時、グラビティ(重力)を確信したに過ぎない。

(このエピソードが本当にあったのか、または、後世の創作なのかに関係なく)

以前から、

和菓子司〈藤むら〉の商品を楽しんでいる僕が、

一昨日、似たような経験をした。

つまり。
前々から心のどこかにに引っかかってはいたが、

お店の名を、漢字とひらがなで分かち書きし、

藤村としていないのは訳があって、

決して洒落でやっているのでなく、

もし、漢字二文字にすると、

この地では多く、〈とうそん〉と読まれかねないからなのだ!!、

……という確信が、ふと、こころに湧きあがったのです。

そう、あの島崎 藤村 という筆名が有名であるために。

きっと、そうに違いあるまい、と僕はただちに、200%決め込んでしまった。

もっとも。

島崎 藤村とは、本当は!!、しまざきふじむら、と読む。

なぜなら。

藤子 不二雄(漫画家) と同じで、ふたりの作家による共作を、

〈島崎 藤村〉名義で発表していた、というのが僕の推定なんだが、

世評、どこを調べても、そのような記述がなく、

まったくもって、不思議というしかないのであります。

では。

こぞって昇格を言うのなら。

 

新井 直登、移籍先決定してよかった、JFLから成り上げれ!!

さて。

熱海(あたみ)が、言葉と成立するのが日本語だから、

熱晴(アッパレ)だって、

こじつけの造語とはいえ、いけるだろう。

山雅(の現場)がいいたいのは、

戦うチームのその姿で魅せてやる、という覚悟、と僕は好意的に受け取る。

シーズンの終わりには、アッパレと言わせてやる!!、と。

ただ。

これだけ異口同音に、昇格が語られるならば、

この際、むしろストレートに、

One Sou1 Get Back! でいいんじゃあないか?、と思ってもいる。

Get back, to where we once  belonged  (元々居た場所に戻ろうよ)、って歌詞のとおりに。

もちろん。

これは、ビートルズの楽曲をそのままいただいているが、

このバンドを聴いたことがある幅広い世代のココロにも受容されるだろうから、

今季のホームでは、

くどいほどにこれを流したらどうか。

昇格を口にすることで、自分たちを追い込むんであれば、です。

註☞この曲が、もともとパキスタン人差別を意図してた(移民は帰れ)とか、
ジョジョという風来坊、ロレッタ(女性名)と名乗るゲイが登場する。といっためちゃくちゃな歌詞とか……、どうか、そこらは大目にみてくださいまし。

では。