1月2日(木) 午前 5:47~ 5:52 の5分間。

もしも、晴天であれば。

太陽光を受けて白く輝きながら、

北北西から東南東に向かって、

夜明け前の空を、おおよそ北から東へと横切っていく、

ISS(国際宇宙ステーション)が観られます、という情報。

最も接近する時は、

仰角が 60°で、この地からの距離は、 500㎞以内。

天気予報ですと、可能性が高くて、見やすい観測日和です。

……さて。

パッヘルベルのカノンは、かなり有名(過ぎるくらい) な曲なので、

したがって、そのカヴァーは幾千もあるでしょうが、

やはり、

当時の演奏様式(=オリジナル)で聴くところに落ち着いてしまう。

作曲年の詳細は、不明。

でも、作曲者はバロック時代の人で、

1600年代の終わり(1680~1698)に近い時期と推定されるらしい。

3つのヴァイオリンによる追っかけを、チェンバロなどの低音楽器がずっと支える、そんな編曲。

こんな動画をみると、素人の僕にさえ、実によく曲の作りがわかる。

ここでは、チェンバロ、チェロにリュートが加わって、セクステット。

では。

日々是平穏(ひびこれへいおん)を。

毎日が平安に過ぎる、なんてのはとうてい無理な話。

だけれど、

分、つまり、自分の限界を知っていて、不都合な事実に過大に反応することなければ、かなり平穏に暮らせるはず、と思っている。

反対に、予期せぬ善事も、

ほどほどでないと、そこで運を使い果たすから歓迎できない。(運をほとんど信じてないが)

昨日の午後。

梢を鳴らす風を聞きながら、ソファーでまどろんでいると。

― あぁ、来ちゃった、と言いながら家人が入ってきた。

息子家族が思ったより早く着いたのかい?、と思いきや、

葉書を2つ持っていて、

新体制発表会のご招待に当選した、という。

シーズンパス(自由席)を使うようになって、14年が経つが、

これで 4回目のアタリ。

残念だけど、僕は、当日勤務なんだよね、と応じると、

早退すれば?、と簡単におっしゃる。(ご本人は休暇のようだ)

念のために、

座席番号を確認すると、これが、

芸術館の、バルコニー席(の連番)。

ふーん、舞台を、斜め真下に観るような、なかなか得難いロケーションではありませんか。

まだ間があるから、指定席でもあるし……。

早退の2文字が、頭の中を占めつつある現在ではあります。

では。

この街と在るために。

しばらく前のこと。

ヴァン氏(職場の同僚)が、

― これ、かなり昔のものだけれど、と、

松本山雅の〈のぼり旗〉をひとつ(未使用) くださった。

氏は以前、松本中心部でお店をやっていたから、当時配られたものだろう。

〈この街とともに〉と、あしらってある。

思えば。

強力な親企業や責任スポンサーを持たない山雅であるからには、

単に、松本に本拠を置くだけでは不十分であって、

地域の人々に受け入れてもらえる存在であること、これこそがいちばんの生命線のはずだ。

大げさには、不滅であるためには、

自称熱心なファン&サポーターが背を向けるより、地元一般の方々の不評悪評、これのほうが百倍も危険。

そこで、

オフシーズンだからこそ、

ファン&サポーターとしてできることを見つめよう。

単刀直入には、クラブの足を引っ張らないこと。

身も蓋もない、かなり消極的な表現で恐縮ですけれどね。

❶大局的なことで。

サッカーには取り立てて興味の無い人々のほうが、圧倒的に多いのだから、それを忘れてはいけない。

せめては、おおかたの市民から、好意と関心を寄せていただければありがたい、と思わなくては。

アルウィンは、お借りしているのであって、
広域公園は、山雅がやりたい放題に使えやしないもの。

山雅の公式ページで、サッカー観戦用に指定されている駐車場には、アルウィン周辺に配された、小さなスペースは含まれていないはず。
だが、毎ゲーム、観戦者とおぼしき車輌で占有されている現状。

堤防の決壊がはじめは針の穴から始まるように、こういう細かなところへの遠慮、気配りを欠いては、やがては、クラブの評判に影が落ちるだろう。
クラブには、この点は、見逃さないように願う。

たとえ、他でやっても、ここアルウィンでは、〈不適切発言〉を慎む、とか。

さらに、周囲を不快にするような野次、暴言もよ。

❷小局的な側面

ファン&サポーターが、みづからに(ほぼ無意識に)課した〈桎梏〉から解き放たれること。

桎梏(しっこく)とは、足かせと手かせのことで、要は、自由を束縛するものを指す。

ここでは、〈かつての山雅〉〈いつか見た山雅〉とよく表現される、

過去への憧憬と、その再来を渇望する気持ちや心象、を言います。

あるいは、当時のサッカースタイルを、クラブに永遠なものとする風潮。

ま、このブログでは、いつも指摘してますけどね。

昔を偲ぶのはちっともかまわないのですが、

時間の経過によってかなり純化されている過去によって、現状の良し悪しを云々するのは、かなり危険なところがありまして、

たとえば。

圧倒的な戦績を積みながら、終盤清水の猛追によって3位に転落、プレイオフで、6位の岡山に敗退した 2016季。

それと同様に、やはり、プレイオフで涙を呑んだ 2024季。

単純に、これを同等に比較できるのか?、といったこと。

指導者とプレイヤーの流動性(使いまわし)によって、3部リーグが、戦うに目覚ましく困難となり、

是非はともかく、

ピーク時の、ほぼ半分に近いクラブ収入とチーム人件費をやりくりしながら、

けっこう面白いチーム作りをしてきている、というのが僕の評価です。

これは、僕のサッカーの観方の深まりによるところも大きいのですが、

各プレイヤーの成長、という点で、かなり魅せてもらったのが今季の収穫。

シンボリックなのが、

高卒5年くらいの山本 龍平、村越 凱光、ユース出身のルーキー樋口 大輝、彼等の躍進でした。

その少し前を、野々村 鷹人や宮部 大己が歩いていて、

飯田 真輝が、山雅でキャリアを始めてから成長していった、その踏襲と期待してます。

今季末、レンタルに出した大卒入団者を一気に契約満了とした山雅。

それはそれで残念、

とはいえ。

かつてもこうやって頻繁に出し入れした山雅であることを、都合よく忘れてはいけません。

では。

素晴らしきかな,2025年。

何故か?、と言えば、

僕の好きな画家ベストいくつかのうちの、

ふたりの展覧会が、日本国内で、巡回展として開催されるからだ。

パウル クレー(1879~1940)と、トゥールーズ de ロートレック(1864~1901) のふたり。

このうち、ロートレックのほうは、すぐ1月には、松本市美術館にやってくるから、

ま、僕にとっては、(存命中の) 千載一遇のチャンスともいえる。

その気になれば、(時間と予算は要するものの) 何度でも、観られるわけ。

ロートレックは、エドゥアール マネ(1832~1880)のような革新性、思想性(☜素晴らしい!!)には欠けるけれど、

自分の趣味と興味に没頭し尽くす点が、

この作家の美点なのだから、そこの追求には魅せられるものが多い。

クレーのほう?

僕からすると、その作品が、

あれだけ斬新、かつ、エモーショナルなものを拒否しておきながら、

人を包容し、魅了する不思議さは、ちょっと比類するものがない。

つまりは、絶賛ですね。

こっちは、名古屋、あるいは、静岡での開催を狙うつもり。

どちらも。

半端な解説には目と耳を塞ぎ、時代うんぬん、人柄うんぬんなどはまったく棚上げして、

ひたすら作品群と対面して楽しむのであります。

では。

K君へのアンサー ムーヴィー。

数日前。

親友のK君から、年末の挨拶が送られてきた。

僕は、年賀状をやめてしまって 3年ほど経つから、

彼は、気をつかってショートメールにしたのだろう。

……今年も一年、お世話になりました。(中略) 実は、今日のN〇K BSで黒澤 明の「椿 三十郎」を観ました。面白かったです! 原作は山本 周五郎。あぁ、ヒューマニズム!  でも、いいですねぇ、素朴なヒューマニズム。
齢ですかねぇ、こんな世の中、そんな小さなことにたまらなく惹かれます……。

……こちらこそ、果たしてないお約束もあったりで、いろいろお世話になりました。
椿 三十郎ですか、みづから押し入れに入る小林 桂樹はいい味ですね。
ラストの決闘シーンで、三船が、左手で小刀を抜いて(仲代 達也を)斬り上げる殺陣は見事でした。ご家族ともどもご自愛を……と返しておいた。

年末年始は、少したまった不燃ゴミを処分するのと、

子どもの帰省と会食の準備くらいで済まし、特段のことはしない。

ありがたいことに、公私ともに忘新年会は、一切なし。

勤務も通常ローテーションどおりだから、

食事も睡眠もフツーに摂って、つまらんTV番組は、駅伝含め、もちろん避ける。

いまさら、あたらしい決心も要しない……、そういふのがベスト。

ただ、ひとつだけ。

K君へのアンサーとして、ヒューマニズム映画をひとつ。

『真昼の決闘』(原題 High Noon、1952年米国)が想い出されたのだ。

……結婚式の日、円満退職して街を出ようとした保安官夫妻に、降って湧いた災難。

ウィル ケイン(ゲーリークーパー演ずる保安官の名前)に復讐を誓ったギャングが、この街に正午(ハイヌーン)に着いて、ケインに報復をおこなう、という。

保安官は、町民に、加勢して抗戦するように説得にまわるが、誰ひとりとしてそれに応ぜず(たったひとりの少年をのぞいては)、

新妻は、クエーカー教徒の信条ゆえに武器を執らない……。

初老(50歳を過ぎたあたり、クーパーの実年齢も)のケインはひとり、 4人のならず者に立ち向かっていく……。

話し出すとキリがありませんが、この作品は、以降の、アメリカンヒーローの典型を創った。

その条件とは、ふたつ。

ひとつ、意志をふるって孤立無念の戦いに挑む

ふたつめ、〈陰り〉(=弱点)を持った個性である。

たとえば。

真昼の決闘から、ちょうど 30年して世に出た、

『評決』(1982年 米国)は、その典型的ヒーローを、法廷で魅せた物語。

今は落ちぶれて、アルコール依存症の弁護士を演ずるポール ニューマンは、
この時、57歳だった。

すくなくとも米国映画のヒーローは、この先も、この美点を踏襲するに違いない。

さて、お楽しみの動画は、真昼の決闘のエンディング。

クーパーが保安官バッジを棄てるところは、20年後に、クリント イーストウッドが、『ダーティハリー』で、もっと派手にやって魅せたなぁ。

では。