降格論❶ ―存在価値から始めよ ―

かなり不満足なゲーム (単に勝てなかったからではない) だったけれど、相模原まで往復した価値は、やはり、在ったと思う。

ゴール裏の芝生席では、

ため息、ポッとこぼれる感嘆や感想、はたまた、同好の者同士の挨拶。

アウェイならではの、聞かずとも耳に入ってくる、そんな言葉には、ずいぶんと考えさせられましてね。

さて、と。

第42節を残し、仕事の仕上げをば、最後まで確かめることはもちろんだが、ここしばらくは、いろいろと喧騒が予想される。

だからこそ少々、萬年式の、来季に向けての生活と意見をば、〈降格論〉としてその都度、綴っておきましょう。

29日付けの公式サイト。
神田社長による、支援者へのメッセージが掲載された。

たかが一文に過ぎないけれど、降格がけっこう重大なことであるからには、SNS上で、それについて覚悟を発信しておくことは必要だ。

こういう事態だと、リーダーは、なにをやっても、あるいはやらなくても、なにかしらの批判を受ける、ってのは世の常。

中には、多分に悪意と発信者の無智と低能をさらしたようなものもあるが、そこは謙遜を装ってでも、上手くやり過ごすことです。

真摯で、建設的な、傾聴に値するご意見は参考にする、といった態度で。

で、メッセージの内容。
この度、降格、という大背信を犯してしまいましたが、ご支援を得られる方向で挽回を図っていきたい。ついては、引き続きご支援を願いたい……。

ま、こんなもんでしょう。

その中で、松本山雅のクラブ理念、そこへの言及があったので、かなりホッとした。

降格という、喜ばしくないことを、あくまでクラブの存在価値を見つめながら、今後の舵取りやら、舵切りをおこなう、これが相当に大切。

逆風の中でこそ、あるべき自分の姿を、まづは外さない。

そこからスタートでありましょう、ね。

地域の中、ここまで拡げてきた風呂敷をたたむ必要はないし、今さらたためやしないんだから、なにをやるにしても、そこがキモです。

ひとつの企業としてのマットウな経営/事業運営と、街に開かれたスポーツクラブ。

ふたつの要求を調和させること、その手腕に期待します。

街に開かれた、というのは、例えば、
フツーの年配ご婦人が、相模のゴール裏で、

―サッカー人生を賭けて戦っているのかね、あなた達?
こんな試合をやっていたら、どこからも声なんかかからないわよ!、
と、まるで身内に言うようにつぶやける、ってこと。

あるいは、自分らの仕事が平気で批判され、ビールをかっ喰らったじじいにヤジられる。

そういうのをひっくるめて、愛と思えるか?、客商売として。

昨日の朝、職場でバルサファンのクレ君が近寄ってきて、やおら、
― 来季は、またチャレンジですね。

単刀直入に、ソッと切り出すところが、彼の良いところ。
で、こう返しておきました。

― そう、まづは、戦力の確保。
そしてねぇ、J3では、またひと味違ったサッカーになるだろうから、その水に巧く適合することかなぁ。

ちなみに周囲には、
― しばらく前から、J3優勝をシュミレーションしてるんで―、とかなりマジメに広言しているので、いろいろとイビられますがね。

相模原戦の行き帰りの車中。
たまたまサイモン&ガーファンクルを流していたんですが、今は、エヴァ キャシディのカヴァーによるこの曲を……。

では。

憤怒で,降格の河を渡る日 (2021.11.28相模原戦レビュウ)

1 – 1 のドロー。

嬉しくはないけれど、降格そのものに、怒っているわけではない。

ラスト5試合、できて1勝だろう、と言っていたくらいなので。
(まだ、3分1敗です)

リーグを落としたら、また、やり直せばいいだけの話。
雷鳥は、いつも頂を目指すんだから。

なにが、腹立たしいのか、って?

リーグ戦のドンづまりで、こんなゲームをやってしまうことに対して。

せっかく前節、内容において一歩進んだと思ったら、昨日は、五歩ぐらい退化したテイタラクを見せられる。

できないのか、やらないのか(外部からは)わからんが、あれが精一杯の仕事、とは、誰も思いませんよ、山雅ウオッチャーならば、決して。

勤め人として、あたしゃあ、こういうのがいちばん嫌でしてねぇ (コロンボ調で)。

返金してもらいたいわ、と思う。

が、チケット代は相模原さんに払ったんで、そうも言えず。

まぁ、不幸中の幸いは、こんなゲームを、8,000人のアルウインでやらなくて良かったこと、でありましょうか。

その分、相模原に参集した、降格を、悲劇と考えるファン&サポーターにとってみれば、
そのカタルシスさえ味わえないような、未練たっぷり、燃焼不足の顛末となったわけです。

ゴール裏芝生席の面々のほとんどは、これからも共闘の同志でありましょう。

けれど、だからこそ、ゲームを作れない不出来に憤懣を憶えるのであって、もしも、これが第三者ならば、ただただ眠たくなるようなゲーム、に違いなかった。

❶ボールが行ったり来たりのゲームで、殺す(切る)べきボールと、活かすボールの読み分けもできずに、ただ一辺倒に球際に向かっていく守備。
次の展開を織り込んでプレイしていないから、簡単に相手ボールにしてしまう。

❷縦にボールを供給することを禁じられてんのか?、と思ってしまうくらい、相手の守備網に対し、ほとんど横、横、にボールが動くような組立て。
たった一回、安東 輝が果敢にボールを持って駆け上がった記憶しかない。

最終ラインから縦パスを入れたくとも、中盤より前のプレイヤーは何故か、相手の陰に入ってしまう。
あれじゃあ、ボールを引き出せないでしょうが。

❸どっかから、ルカオギャンブル失敗、って声が挙がっていたけれど、確かに、ルカオと伊藤を並べる、って手はないわ。
ルカオにボールを当てるならば、その衛星として動けるようなプレイヤーを手当てしないと。
セルジ―ニョは、組立ての起点で手一杯になるはずなんで、あそこには、河合、あるいは榎本あたりを持ってくるべき。

要は、3 – 4 – 1 – 2 ではなく、3 – 3 – 2 -2 でしょう、やっぱり。

ゲーム後、盛り上がりも盛り下がりもないようなゴール裏、お隣のお方とは、

― おそらく、この引分け、山雅と相模原にとっては、そろって討ち死の結果が濃厚でしょうね、

などと、お別れしたのでした。

では。

正直さに驚く 今季。

山雅、ここまでの勝ちを、対戦相手で並べてみると、
秋田      2
群馬      1
北Q       2
相模原   1
東京V    1    の、計七つ。

現時点の順位、東京Vは12位、秋田 13位、群馬 16位、相模原 18位、北九州 20位。

だから、上位チームからは、まったく勝利できないで、ここまでやって来た。

まだ終わってはいないものの、強敵に〈間違って〉勝ってしまった、というゲームが皆無の、なんとも正直なシーズンだったわけだ。

望外の勝利がひとつもなくて、順当に負けるべくして負ける、或いは、どうやったって、引き分けがせいぜいだった。

北ゴール裏同士チノ氏に言わせると、上位に抜きんでたチームとは、サッカーの突き詰め方において、まったく引き離された結果が、こうして数字に残る。

まぁ、観ていて感じることは、
守備に戻る、または、攻撃に競って出て行く、前後に行ったり来たりの俊敏性、力強さ、執着性、要するに、迫力。

そういうものが、おおいに欠乏していたなぁ。

いざ攻める、となった時の手薄さ、遅さ、ノッキング。

失点ゼロの、いわゆるクリーンシートを記録できたゲームは、これも、たったの七つ。
背走して追いつけない場面ばかりを観ていたような気がする。

映画『七人の侍』(1954年)の中のセリフで、

―戦(いくさ)ほど走るものはないぞ。攻むる時も、退く時も走る。
戦に出て走れなくなった時は、死ぬ時だ。

それが、つくづくと思い出されるわい。

シーズン前にキチンと作り込めなかったツケを、最後にきて少しは払えるようになったのか、どうか?

それを確認する、今日も入れて、ラストふたつ。

今のうちに総括しながら、来季につながる見どころをば、探しましょうかね。

寒さの中でも、せめて心は……。

では。

ワノブゼムでいいよ (SC相模原戦プレビュウ)

― 太陽と死とは、じっと見つめることができない。(by ロシュフコー)

口あたりは良い言葉だが、それって本当かよ、と思いながらシャッターを切ったりしている。

9戦勝ち無しの戦績で来てしまった。
ただし、その間、ゲームスタイルをおおきく変える方向転換で対応しているわけでもないから、今節もやはり、One of them のゲームと考えて戦うのが良い。

取り組んできた内容を極める、それに集中すべき。

語気を強めて切迫感を演出することに効果がある、とはとても思えない。

願わくば、淡々、とは進めてもらいたくないが、さて、できるかどうか?

虎視眈々。

じっとスキをうかがってゴールを狙う、っていうのは、考えてみれば、強者としてのあり方なんで、今の山雅には似つかわしくもないから、
せいぜい、ゲームの流れをこちらに引き寄せる様な、発想、工夫、チーム内の意思疎通ができれば。

例えば、クリアをするならば、チョッとは考えてやってくれ、っていうことです。

セルジ―ニョ、フリーキックはもっと力を抜いて。

まぁ、それができないから、いまの成績があるわけで、過度な期待も禁物か。

ギオンスタジアム相模原は、初見参。
4週前もこの近辺に来たよなぁ、と思いながら向かいますよ。

では。

柿盗人は 成立するのか?

― あぁ、今年は、ついに柿を食さないでしまうのか知らん?

独り言のように家人がおっしゃるので、

富有柿のような産品ならばいざ知らず、柿は買ってまでして食べるものとも思っていない僕は、

― 畑の真ん中とか、土手あたり。
誰も収穫していないような樹から、ひとつふたつもぎって来たら、どうなのよ?

― あら、それって、ドロボウじゃあないの。そんなことできませんよ!

他人様のご邸宅の立つ敷地に入っていけば問題ありなんだろうけれど、野っぱらに放ってあるような、鳥が啄むだけの樹から失敬したっていいではないか?

で、このやり取りを、たまたま息子に話したところ、

― あの御方、山菜取りはご執心でいらっしゃるわけですが、それだって柿盗人の論法でいくと、おおいにまづいんじゃあないの?

そう、そうだよな。

そこに思い及ばなかった自分が迂闊でござった。

なぜ、山菜がよくて、柿がダメなのか?

今度じっくりと論戦を挑んでみよう、と思っているのです。

では。