ラヴソング で行こう『Hazel』(by Bob Dylan)

『プラネット ウェイヴズ』(Planet Waves)は、

ボブ ディランによる、1974年発表のアルバム(スタジオ録音)で、僕が、唯一所持している、ディランもの。

ホンネを申せば、バックを演っているのが、ザ バンド、というだけの理由で手に入れた。

もちろん、その演奏は、抜群。
自在にして、重厚、かつ、繊細でロマンティック。

期待を裏切らない。

出過ぎず隠れず、ボーカルを入れやすい配慮が各所に施されている。

録音を、1973年11月2、5、6、9日の4日でやってのけていて、米英市場ではけっこうなセールスを上げたようだから、コストパフォーマンスに秀でた1枚なんでしょう。

ただ、惑星の波、なんていう訳のわからんタイトルはいただけない。

当初は、Love Songs が予定されていたようだ。

並んだ曲はみな、ラヴソングなんだから、そのままの題名で出しておけば、もっと売れているはず、おそらく。

世評は知らないけれど、ディランというシンガーは、あくまでラヴソング作りの名手、というのが萬年式の評価。

でもねぇ、曲自体は良いんだから、もっと素直に、作らずに歌唱すればいいものを、ディランって人は、何を真似ているのか、どう聴かせたいのか?、変にこねくって歌うんで、そこが好きになれない。

演歌歌手が、妙なコブシで魅せようとする悪癖に似ていますな。

仕方ないので、もっと肩の凝らないようなカヴァーを探す、なんてことになる。

『Hazel』は、アルバムSide1の 4番目にある曲。

― ヘイゼル、パッとしないその金髪
でも 君と一緒にいられれば 誇らしいんだ
僕の求めるものを多く与えてくれる 君
あぁ、そのチョッとした君の愛し方さえも。

ヘイゼル、君の瞳に浮かぶ星屑
君の行くところに 僕も行こう
頭上の空のすべてを 君に捧げよう
あぁ、君が愛してくれることへのお返しに……(以下、略)

個人的な格言として、

ザ バンドは、凍てつく冬に聴くに限る。

では。

降格論を越えて (Vファーレン戦プレビュウ)

失ったことに、いつまでもウダウダと執着していてもしょうがないから、降格論は、今回で終わりです。

結論から言うと、クラブ全体の中、トップチームのところで失敗しちゃったんだから、そこで傷ついた部分を補修、修復して次に向かうしかあるまい。

クラブ存亡の危機、とか大騒ぎしたい連中も湧いてくるだろうけれど、それがかえって要らん不協和音を作る。

責任の所在とか、今後の構想といったところで、クラブで悩んでもらって、来季の編成として発表してもらうしかないわけであって、本質的には、経済的な基盤が破綻しないようにしつつ、それを行なう、ということ。

今季にしたって、トップリーグに浸かったゆえの、人的/財政的なバブルな残りかすを一掃しようとした結果が、おそらくは、あのチーム編成と、サッカースタイルの選択だったはず。(2021決算を確認する必要はあるが)

だから、内情の詮索はともかく、僕たちの見える形で、人(指導者とプレイヤー)を決め、やり方のスタイルを決めて来季に突入してもらえれば、それで良い。

すると、そこでまた〈山雅らしさ〉とか湧いて来そう。

だが、勝利するために尽くすピッチレヴェルの努力、仕事ぶりなんてのにチームごと際立った違いなどない。

そこに在るのは、寄り集まった各人の(限定的な)技量と強みを、もっともよく発揮させようとするサッカースタイルであって、それを徹底して表現できた者(側)が、多く勝利を拾っている。

敢えて言えば、今季の総括とこれからの最大課題の中身は、勝利するための突き詰め方、そこらあたりに尽きるのではないだろうか。

だから、今季上手くいかなかったのも、突き詰めることにおいての仕事の出来が良くなかった、それくらいに思っている。

そこから、観ている側の感情移入が絡んで、いろいろな注文や発言が生まれるわけであって、ファン&サポーターがどういう感想を持つか?は、技量的な部分はともかく、精神論になると、これはもうそれぞれの勝手。

だから、試合終了のホイッスルでピッチに倒れ込むか否か、なんて論点は笑止であるから、明日の長崎戦では、どうかそんな浅い観点でゲームをやってもらいたくない、それがすべて。

リーグ戦が終了すれば、それから数日以内には、クラブは各個に対して来季の契約更改の意思を伝達しなくてはならず、そういうココロの葛藤を抱いて戦う選手に、きいたような口は、僕は叩けない。

リーグ戦の締め、ではあるけれど、しかも、予想外の結末の中戦うけれど、今持てる最大力量の発揮をめざしてくれれば、それでいい。

ラスト5試合で予想した、勝率のデータからすると、1勝くらいはするだろう、という願望が具現すればもっと良いです。

さらに、今季限りで引退を発表済みの、#11玉田 圭司のラストゴールが観られて、それでもって、こっちがそれを上まわるゴール数で勝てれば、もっともっといいんだが、贅沢には切りがないよね、まったく。

では、アルウィンで。

女性と子と,サンタクロース。

暇に任せてソファーにひっくり返っていると、ロクな考えしか思い浮かんでこない。

たとえば、女性専用車両。

或る時間帯を限って、その車両には女性だけが乗車を許される仕組み。

昔、山の手線のホームに立って、発車していく電車を眺めていたら、ちょうど先ほどから女性専用になった車両らしかった。

で、その中、男性がたったひとり、窓際に立っている。

その時の、周囲の女性たちから向けられた、憤懣の、厳しい視線。
それが、いまでも思い出される。
孤立無援、ってやつです。

― あぁ、彼、いつ、どうやって気づくんだろうか?
その時はきっと狼狽するだろうな、とやがて来る悲劇を、ヒヤヒヤしてお見送りしたのである……。

たしかに、痴漢は、卑劣で下品な犯罪だ。

けれど、男性全体をその予備軍、温床みたいに一括して見なし、エイやっ、と規制することには、どうも、違和感を覚えている。

こういう乱暴な社会的な分離、隔離は疑ってかからないと、世の中変にならないか?

そう思いついたキッカケは、なんとか一時給付金。

事と次第では、ほどこし政策を、全否定はしない。

けれど、いまや廃止されつつある〈家族手当〉の古い考え方にとどまっているし、そもそも、生活の困窮度は、資産の有る無しと金の使い方によるんじゃあないか?

生活のやりくりにおける汗水と苦労を、どこかで愚弄しているみたいな感じ。

それならば、労働し得た結果に対して、個人の税金を軽くするとかできないのか。

給与所得者ほとんどからの徴税事務は、所詮、企業に押し付けているんだから、国の経費もそれほどかからない。

で、こういうバラマキは、そのうちに条件闘争に堕すがオチなんですが、線引きには根拠もないので、これまた紛糾する。

さて、話は戻る。

先の専用車両にしても、免除要件はあって、

〈小学生以下の男の子、お身体の不自由な方とその介助者の男性〉は、利用可なんです。

この例外にもいろいろと文句もつけたくなるけれど、こういうルール決めを、懸命に仕事として取り組んだ人がJR東日本の中にいたんですな。

ところで、外国からの入国は一切停止、かつ、隔離の経過観察。

これを発表する時に、
―ただし、サンタクロースは例外です、とか言ったならば、絶賛を浴びたと思うんだがなぁ。

……、とここまで考えてきたら、ひと時の昼寝から、ハッと目が醒めた。

では。

来たか! 騒音,その第1弾 (降格論❸?)

職場の天童氏が、
― 孫が(サッカーやってて)、この前、初めて山雅に勝ったって、喜んでてね。

察するに、U – 11年代の話。
少年に、打倒山雅のチャレンジを提供できるのだから、こんなところにも、クラブの価値が在るではありませんか。

さて、昨日。

京子さんから、都度都度のメールが入ったとのことで、家人が見せてくれる。

某市の首長が、定例の記者会見で発言した、その内容。

ふむ……、総括、責任の所在を明確に、松本らしいサッカー、新しい態勢……だと。

これをそのまま発言した、というメディア報道が本当だとして、

さも、もっともらしい言葉が並ぶけれど、こういうのは所詮は他人事、直近のトピックに関してなにか言っておくか、で発しているので、クラブにとっての支援でもなんでもなくて、むしろ、騒音の部類に入る。

前の記事に書いた、喧騒のひとつと思って、距離を置きながら、丁重に承るような姿勢で対処すればいい話。

クラブ自身が死ぬか生きるかの瀬戸際、と思っているのならば、見栄なんか脇に置いて、媚びを売るなり、頭下げとくだね。

注意しないと、プライドは、時として命取りになります。

― いちおうホームタウンとして出資者であるわけだし、それ、税金から出ているからね、と家人。

そうか、市の代表、公人として発言しているんだ。

で、身銭を切って観戦した相模原戦の失点を持ち出してきて、CKからの失点が今季を象徴している、とか指摘のご様子なんだが、

フリーキックからの失点そのものは、J2優勝の2018シーズンと比べて、失点パターンの割合において、ほとんど変わっていない(1%多いだけ)。

まぁ、あのシーズン山雅と歩いていないのだから、その程度の認識で仕方ないっていえば、それまでなんですけれど、わかったような口は、慎んだほうがいい。

こうなったら、その失職と、山雅の捲土重来が叶うその日の、どちらが早く到来するのか、楽しみのひとつにしてやろうか。

でも今は、来季、飯尾氏と片山氏の、DAZN解説者としての仕事がなくなることのほうが、ずっと残念で気がかり。

某SBCのアナウンサーには、せいぜい気の効いた実況を願いたいが、
できれば、平ちゃんこと、平畠 啓史氏に全部丸投げしてもらいたいわ。

この際、山雅専属ということで、いかが?

では。

降格論❷ ―自分を何者と思うか? ―

去る11/28の、クイーンズ駅伝(実業団女子 28チーム参戦)では、積水化学が初優勝 (それも大会新記録)。
注目(by ルノワール氏)の、日本郵政の3連覇は、ならなかった。

オリンピック代表を擁しながらもトップを獲れず、ただ、それでも、第4位。

創部6年で優勝3回、ってのは、新興チームの躍進として上等なもの。

それと比べるわけでもないが、Jリーグにあって、山雅は、まだまだ新参者の部類。

それが、幸いにも、トップリーグへと二度も駆け上がってしまったので、今回の件、マスメディアなんぞ、1部からたった2年で3部落ち、とか劇的に書き立ててくれる。

読ませようとするので、そういった見出しになろうが、たしかに1部には居たものの、とても他に伍していけるほどには、クラブおよびチームの力量/技量も不足。

だから、そんなに盛ってくれてかえって申し訳ない、って感じですな。

まぁ、2部にあっては、そこそこ上位に番付を保てればいいか?、くらいの体力だと思っている。

実際、10年間で、順風満帆の、挫折なき平穏なシーズンなんてのは、2、3度くらいしかなかった僕の記憶。

このあたりを見逃してしまうと、ロクな議論は生まれてこない。

もともとが、地域リーグからの成り上がり者ではないか。

ただし、そこにチョイとこだわりを足したクラブと、それを取り巻くこの街と人々、それが〈山雅〉なのだ。

JFLの頃からココロを向けだした者からすると、れっきとしたプロスポーツクラブが自分の街に在って、スタジアムに足を運べば、格安で熱い時間を楽しめる― これだけで、かなり贅沢な人生を送れている。

爺婆や、世代を超えた男女の娯楽であっていいし、そこへもってきて、勝利を多く体感できればさらに嬉しい、ということだろう。

どんな(職業的な)世界でも、上を目指すのは当たり前。

ただし、参戦するリーグを絶対的な基準にするあまり、昇降格によってサッカーを楽しめなくなるなんて、なんという貧しさ、浅はかさ。

― エド シーラン、というイングランドの歌手がいてさぁ、と切り出したら、

― 知っているわよ、という家人の返事。
あたしが知らないとでも思っていたの?、という響きが強くこもっていたので、意外だった、とも言えずに、こう続ける。

― 彼、地元の、リーグ1(3部相当)で戦うクラブ(イプスウィッチタウンFC)のサポーターを公言していてね、今度、来季の胸スポンサーになっちゃった。
自身の2022コンサートツアーのシンボルロゴなんだけれどね、これが、四則の計算記号を並べたユニークさで。

エドのコメントより……、
〈フットボールクラブは、地元のコミュニティにとって大きな部分を占めるもので、これが僕なりの支援の示し方なんだよ〉

要は、おのれの姿をキチンと捉えられれば、今回の降格を機に、何を変え、何を変えざるかが、自然と見えてくるように思うんですがね。

鏡に映った自画像を見すえるというのは、なかなか辛い仕事でもありますが、外部のやかましさと雑音を消し去り、みづからを変革するために前に投げ出していく。

― 他人の火事は面白い。
……なんて諺があるくらい、いろいろ言って他人の逆境を楽しむ輩は湧いてくるが、そんな無責任な論評は放っておきましょう。

では。