挙げた拳を 巧く下ろさせる。

プロ野球のゲームで、主審が、ピッチャーズマウンドに詰め寄る出来事があった、という。

わざわざニュースになるくらいだから、あまり見かけないことには違いない。

しかも、その時投げていたのが、今をときめく速球投手だったらしいから、注目度も高い。

好奇心に駆られて、そのシーンを観てみた。

なんのことは、ない。

ストライクとボールのジャッジに対して、マウンド上から不敵な(と感じた?)笑みを浮かべた、20歳の投手に対し、

― なんだよ、小僧、そのふてぶてしい態度は、よぉ!

と、いい歳こいた中年アンパイヤが、カッとなって、マウンド近くまで恫喝しに行った、それだけのことではないか。

僕は、アンパイヤの処し方のルールについちゃあ詳しくもないから、この行動の是非はわからん。

けれど、仕事上、こういったシーンにお目にかかることはけっこうあるし、自分より若輩の者に、冷笑された日にはフツー、ムッと、あるいは、カッとなる。

今回、そういう場面が、たまたま何十万人の、衆人環視の中で起こったに過ぎない。

機械が投げて、機械が判定しているわけでもないから、感情の表出とか、ミスジャッジがあって当たり前、あまり騒ぐようなことでもない、と思うけどなぁ。

ただ、願わくば、この主審これを、もっとスマートにやれば良かった。

喧嘩も、売り方次第では、見苦しい。

とは思うが、そういう頭の良さ(聡明さ)を盛んに修養しているような業界でもなさそうだし。

ただ、ひとつ。

僕が惜しい!! と思うのは、この時、ロッテベンチの首脳陣には、できることがあったのに……、ということ。

― おいおい、穏やかじゃあないね、君い。
うちの若いのになにか文句があるなら、監督のこの俺に言う、ってもんだろう。

と、すかさずダッグアウトを出て行く機敏な戦略性は、ないようですな。

相手がカッとなる、いわば、無防備な時こそ、状況をこちらに優位に持ってくるチャンスなのに。

一瞬の不可解さにとまどってその機会を逸したのか、あるいは、取るに足らぬことと思っていたのか知らないけれど、もしも、そうしたならば、今後の、ジャッジを優位に導けるだろうし、なんたって、監督が援護してくれるんだ、ということで、プレイヤーのココロを掴めたでしょう。

子どもの喧嘩でも、キッチリと、大人が出なきゃあならない時がある   by 萬年

ロッテは、勢いがつけばそれなりに勝てるが、ゲーム巧者とは言い難いチーム、と感じます。

そして、この若いピッチャー、案外早期に、他球団か、メジャーリーグへ移籍していくんじゃあないだろうか?

では。

満を持すために聴く。

2部に比べると、ゲームが、8つも少ないリーグ戦。

DAZNの中、どうしようもないような解説が入らないことには案外に慣れてしまい、かえって、スッキリしているけれど、

15日2週間もゲームにご無沙汰とは、なんとも切ないことです。

……、ということで、こんな曲を聴いて、第7節に備えております。

リーグ戦も、5分の1 を消化する、という大切な節目でもありますしね。

では。

ツバメに のり平を。

日記にでも書きつけておかないと、忘れてしまうことだらけ。

と、いうことで、隣家のツバメ(夫婦) が、今月11日に飛来したことを記す。

庭を動いている僕の様子を、早速、電話の引き込み線にとまって上から眺めているので、

― やぁ、お互い生き延びて、また、会えたよね、と声に出して挨拶する。

野鳥にも霊はあるのだから、きちんと言葉にして伝えるのが、礼儀だ。

ところで、その4月11日とは、三木 のり平 (1924 ~ 1999年、享年74 ) の 誕生日。

だから、あのツバメは僕に、のり平を偲ぶという贈り物をしてくれたわけ。

ここで僕がわざわざ強調しなくとも、喜劇役者としての卓越は、世間がわかっていることは十分に承知。

40数年前の〈徹子の部屋〉で、司会の黒柳が、ゲストの三木を半分マジメ、半分大げさに〈喜劇王〉、と紹介しているくらいですから。

小林 信彦 著『おかしな男 渥美清』(2002年 新潮社刊)には、こういうくだりがある。

1962年のこと、小林が、渥美に、
― 三木のり平は、なぜに仲間うちで受けるんだろう?、いっときほど面白くないと思うが?、と水を向けた。
すると、渥美は、ズバリと、こう断言した。

―肩の線だね。あのなで肩の感じが、プロ(俺たち)にはたまらなく、おかしい。

肩の落とし方で、おかしみを表現できるのか。奥が深いなぁ。

でも、まぁ、いいや。

21世紀になってしばらくの今、それを超える役者に乏しいんだから、ここで称賛し直したところで、なにが悪い。

映画『あ・うん』(1989年)では、掏摸(スリ)役でご登場。

高倉 健 (主人公) のフトコロからまんまと抜いたあと、バッタリ屋台で一緒になる時の、なんともバツの悪そうな演技。

これは、以前にご紹介したか、と記憶しますが、今回は、座頭市(by 勝 新太郎) への出演場面を観ましょうか。

では。

7日も経って 気づくとは。

山雅公式ページ、岐阜戦結果のキャッチコピーが、

2得点を挙げた、住田の名、将(sho) を もじっていることに、ようやく気がついた。

しかも、もともとは、メジャーリーガー 大谷 翔平への賛辞 Sho Time の流行りがあって、それのイタダキであることも、この度、知った次第。

世情に疎く生きていると、こんなもんだ。

さてと、1週間のブランクの後は、リーグ第7節 対アスルクラロ沼津戦。

そこには、どんなショータイム (素敵な時間) が待っていて、
誰が、その舞台で、ヒーローを獲るのかを楽しみにしましょう。

と言っても、空いた週末を、2日連続でトレーニングマッチに充てるとは、なかなか意欲的でグッド!!

いろいろと検証できた事を願いますが、
けれど、エスパルス戦の2失点、あれって、ゴールキーパーのポジション取りが、ミスっぽくないかい?

ま、クロスをたやすく上げさせたら、あぁにもなるか……。

では。

因果応報を、疑う。

不祥事とか、事故とか、なにかとてもマヅイことが起きて、

関係した者が、それに対応している様子を観ている。

すると、あぁ、こんな組織だからこそ、こんな者たちが絡んでいるからこそ、こういったことが起るんだろうなあ、と思うことが、しばしば。

だが、自分の中の、そういう決めつけが、果たして的を得ているのか?、最近よく考える。

デカルト的な、事象 ⇒ 実験による再現 ⇒ 定理としての確認、といった手続きの考え方に染まると、どうしても、結果には、必ずその原因があるはず、といった態度におちいる。

ここ300年くらい、人間がそういう思考態度を、いかに巧緻、精密にするかに腐心してきた結果、僕らは、事実を良くかみしめる前から既に、何故?、を求めることに馴れてしまった。

だから、あることの原因をそれらしく示している記事に出逢うと、ひどく安心してしまって、まるでその説を〈神〉であるかのように信奉する。

そうか、皆で、神を探しているんですな。

そうではなくて、

前もって存在した不足などにはおかまいなく、たまたま、その事が、そこに起こっただけ、といった考えを見直してみようか、と考えているのです。

ただ、そのデカルト (1596 ~ 1650年 ) は、

人が、神性について思い及ぼすこと自体が、神の存在を証明している、と言っていて、これは、人間の思考を絶対視した言葉なのか、それとも、神の実在を認めた発言なのか、僕は、いまだにわからないでいます。

では。