西部戦線 異常なし。

世界とそこに住む民が、SNSに習熟してきたきょう日、

一日も経つと、このままいけば、戦火が噴いた地のその先に何が在るのか、がおよそ見えてきてしまう。

進軍した者は、政権の首をすげかえて、ウクライナに親ロシア政権樹立を宣言させたところで作戦終了、と考える。

核兵器を放棄すれば守ってやる、と匂わせておきながら、マジメにウクライナを取り込む気がなかったNATOにしてみると、あぁ、ロシアとの緩衝地帯ができちゃったか、で終わり。(その緩衝エリアにしても、実質はロシア領土)

地理的に、陸続きでもない英米は、強気なことは言ってる。

けれど、前者には、EUをおん出た気軽さがミエミエ。

後者にいたっては、まるで軍事評論家みたいな口調で、戦況の見物的なコメンテーターを気取る。

かように、隣国にとっての戦況は、準備した甲斐もあって、予定通り、つまりは異常なし。

で、僕らにとって他人事でないのは、では、かの国の東部戦線は、一体どうなんだ?、ってことだろう。

「(日本国民は) 平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

これ、この日本国憲法の前文。

おいおいそんなことって、はたして成り立つのかいな?、といういままでひきずってきた疑念。

これが、正義は我の側に在り、といって侵攻が始まった時点で、もはや、不成立の確信、に変わったわけです、おおかたの日本人にとって。

もともとは、天皇執権による国家体制の否定と、徹底的な武装解除のなかでの作文だったから、リアルな世界でそのまま通用するはずもないことは判然としているんだけれど、これを、マトモに信じ込んでいるアタマがいまも、残る。

ここ80年あまり、国家の名で武力による殺傷をしなかったことは、誇るべき。

が、第9条によってみづから武闘を仕掛けないことはできるかも知れないが、この条文に、日本への攻撃を思いとどまらす効力を、果たして期待できるんでしょうか?、ということ。

この問いに、キチンと答えを出せないと話になりませんよ、例えば、日本コミュニスト パーテイは。

残念なことだが、今ウクライナで起きていることを異常(アブノーマル)と決めつけてしまうと、我が身が危ないのです。

これに対する、僕の処方箋は、以前どこかで書いたとおり。(赤字は追加)

過去、同胞数百万の生命を失ったこともあって、日本人は、徹底的な平和主義者であり、温厚で愛すべき隣人。

けれど、これに、ひとたび侵害を企てたり、実際の脅威を及ぼした時は、徹底的な反撃と、狂信的なまでの抗戦を覚悟しなければならない。

平和と武闘のふたつの顔を持つ、どこか、理解不能な民族に、手出しは禁物。

これこそが、資源と領域に乏しい僕らが生き残る在り方であって、それには、ハイレベルな武装と精緻な作戦遂行能力を備えておいて、いざという時に備える。

うだうだと時間をムダにしていて、30年も経ってみましょ。

人口は、100年前(8.000万人くらい)と同じになって、しかも、65歳以上が全体の40%になる世界がやってくるのです、確実に。

外のガードを堅くしておいて、早く、そっちのほうに備えなければ。

30年も経ったら、当方、この世に居ないのはわかっているんですがね。

では。

真実と正義とは、我れにあり

タイトルは、隣国ウクライナに、武力を持って侵攻した某国大統領の、テレビ演説の言葉から。

今月1日にすこし書いた案件、遂に、ルビコンを渡りましたか。

価値判断を、まづは棚上げにしておいて、人の弱点と障碍を、病気による症状としてとらえ、不快な言動を、ハラスメントでくくっている、極東の僕からすると、よくも、こうシャアシャアと〈真実と正義〉を口にできるもんだ、と感心してしまった。

1991年、偉大なボルシェビキロシアが崩壊すると、自分の陣営から、西欧側へと、つまり、北大西洋条約機構(NATO)に寝返った国家は、いまや14つにもなって、加え、ウクライナまで引っ張り込まれては、とても我慢ならないのだ。

自身に強権をかき集めた政治リーダーが、ここ30年間という時間の流れに、どこまで抗えるんだろうか?、そのことばかり考えています。

アメリカはどうするか?

まぁ、本気には、介入しませんね。

1979年、ソビエトの武力侵攻に始まったアフガニスタンのぐちゃぐちゃの中で、40年ももがき苦しみ、そこから、去年やっとこさ足を洗ったばかりですから。

で、日本は?

この島国で呑気に暮らそうと思うならば、もう八方美人の外交はやめることです。

ロシアに経済制裁をするってんだったら、新潟あたりからやってる、自動車とその部品の、かの国への輸出を全面ストップするくらいしないと。

そうすれば、あの国では、5台に1台の車が走らなくなりますよ。

では。

週末の落胆、とその先。

不破 聖衣来(拓大1年)が、26日の福岡クロスカントリー2022へのエントリー取りやめを、数日前に発表した。

― と昨日、ルノワール氏から聞いて、かなりがっかりしてしまった。

ところが、これには、もっと先に、確固とした目標がありまして、

まづは、日本学生陸上競技個人選手権 (4/15~17)が、シーズン初戦。

次に、日本選手権10,000m (5/7 国立競技場) で、優勝する。

で、米国オレゴン世界陸上 (7月) で世界の舞台に立ち、勝負。

不破は、昨年12月に、世界陸への参加標準記録はクリアしていて、日本選手権で、3位までに入れば、世界陸上への切符を手にすることができる。

よって、この照準のなか、今年の競技会出走は、4月までなし、というストーリーなんであります。

いよいよ、トラックで、世界を狙ってきたか。

その意気やよし。

ただ、その頃になったら、スターと視聴率がほしいメディアがやたらと騒ぎ始めるのが目にみえていて、うんざりはしますがね。

では。

遊びをせんとや生まれけむ 

2022年 2月 22日。

今月生まれの僕からすると、この数字の並びはなかなか味わい深い。

グレゴリオ暦、つまり、今使っている西暦だと、これ以上に 2が並ぶのは、ちょうど200年後の今日しかないわけか、と考えたりしている。

幼児が家に来たら、一緒に遊ぶのが、僕へのアサイメント(割当て)。

先日は、こむぎねんど、を持ってやって来た。

未開封なので訊くと、彼としては、はじめて取りかかるものらしい。

ならばなにごとも最初が大事と、一緒に袋から出して、こねくり回して遊んでいた。

こういう時、遊んでやる、といった傲慢さはご法度。

こちらも一途に、没頭しなくてはいけません。

遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ、遊ぶ子どもの声聞けば、我が身さえこそ揺るがるれ、―と、出まかせに呟きながらもよろしい、かと。

『梁塵秘抄』(1180年頃の成立)に収められた、当時の流行り歌のひとつ。

どんな節をつけて唄っていたんでしょうか?

遊びをせんと、と疑問文であるから、この私、遊ぶために、戯れるために生きているのでしょうか?、となる。

たかが流行歌とはいえ、言外には、なかなか深い哲学的な思慮が込められていると思いませんか?

そういった感慨が、後白河法皇 (1127~1192年)をして、この歌を拾わせた、と思います。

時代背景でいうと、梁塵秘抄が編まれたのは、1181年には平 清盛が病死していて、平家政権にかげりが見え始めた頃。

次の時代へと動き始める不安感が、世の中に在ったとしたら、一見戯れ唄に見えるこういった一節にも重い意味を感じたくはなります。

で、こんなものをこしらえて、これは、地球がいくつかで、これは金星、とか話してやると、じゃあ日本はどこにあるの?、とか訊いてくるから、ここあたりかなぁ、とか適当に応えているのでした。

ならば、スイ、キン、チ、カ、モク、ドッ、テン、カイ、メイ、とか拍子をつけて太陽系の話をしようか、と思ったが、これはまだチト早いか、と思いやめにしておいた。

では。

バリバリの ’70s 『ある愛の詩』

1970年 (日本では1971年3月) 封切りの米映画。

原題は、Love Story。

これをそのまま訳したんじゃあ、アッケラカンと単純過ぎて、興行成績が危ぶまれたんでしょうね、きっと。

で、邦題はタイトルのごとしとなった(と推定)。

実を申せば、この作品、いままで観る機会を逸しておりました。

というよりも、敢えて観ないで過ぎた、というのがホンネ。

なんでかは、うまく説明できませんが、アリ マッグローはともかく、ライアン オニールが好青年を演じても面白くもないだろうに、と切り捨てた感じ。

単純な恋愛ドラマと決めつけているから、おそらくは、これからも観ないままだと思う。

たとえ、オニールのルームメイトとしてトミー リー ジョーンズが出ていようとも。

では、今なぜ、この映画なのか?

たまたま、ジャズ曲『Skating In Central Park 』を、また聴いてみようとしたら、フランシス レイ編曲のものが、この作品で使われているのを知ったんです。

ここで、ジム ホールとビル エヴァンスによる定番中の定番(1962年録音)をわざと外してしまうのが、萬年のいいところ。

曲がかかる映画のワンシーン。

曲の良さはともかく、これぞ1970年代の着こなし、ってのが満載でありまして、マッグローはもともとモデルさんですから当然として、画面に映りこむすべてが、これぞ、あの’70s なんです。

オニールが、ブラウスの襟をスエターの外に出して着てるのなんかは、着こなしとしてはアウトですが、時代感覚としては、最高だ!

風俗(装い) は滅びるからこそ記録すべし、というのは或る先輩の受け売りですけれど、実感ですね。

では。