予習はできたか? (山形戦プレビュウ 前編)

前節ヴェルディ戦は、辛くも勝利できた(2 – 1)が、終わってみれば、ボール支配は……、

37 : 63 と、圧倒的にヴェルディに握られた。

もともと 40 : 60 がいいところ、と思っていたので、大して意外でもフラストレーションでも無かった、というのが ホンネか。

〈モンテディオ戦への遺産〉
光明のひとつめ。
それは、開始から15分を、51 : 49 のボール支配で闘えたこと。
これによってヴェルディの出鼻をくじいた、と言える。

次に、ふたつめは、
阪野による追加点を、ボール保持が 最低水準の30%を記録した、後半の中盤(61~75分)に奪えたこと。

この2点の中に、
ヴェルディほどには華麗でないげ、けれど、もっと剛直で骨太な攻撃スタイルで襲うモンテディオ山形サッカーを攻略するポイントが在る、と思う。

〈わかり過ぎるモンテディオ〉
では、山形がどれほど攻撃的なのか?

成績不振により解任(4/21付)された前監督の石丸 清隆氏はもともとが攻撃的なサッカーを目指していたはずで、その後任(4/30付)の、ピーター クラモフスキー氏は、さらに攻撃的にチームを再構築している、と診てよい。

クラモフ氏は、2018~2019年シーズン、横浜Fマリノスでヘッドコーチを務めた。

山雅がトップリーグにあった2019年11月23日。
アルウィンのピッチ練習に立ち合っていたお姿を拝見した。

その時のFマリノス、シュートに至るまでの練習が、ほとんど実戦形式。

いろんなチームのゲーム前練習を観ているけれど、ここまで本気度と緊張が徹底しているのは稀で、あのシーズン、Fマリノスがペナントレースを制した原動力というか、その根拠を思い知らされた。

そのクラモフ氏、さらに、同時就任のヘッドコーチが元愛媛監督の川井 健太氏となれば、攻撃的以外の道はなし、で突っ走って当たり前ではないか。

で、就任以来、リーグ戦11試合を戦い、8勝2分1敗となれば、いまやノリにノッっているチームのひとつ。

さぁ、山雅、どうする、ってのが、プレビュウ後編に続くお話。

では。

差別の対極は、たとえば。

人種差別の記事に、すこし補足します。

差別は、自分とは異質な、個体や集団に出会った時に感じる驚き、戸惑い、不安といった生理的な反応を、思想的な言い訳で偽装して正当化しながら、ずっと繰り返されて来た。

今世紀になって、自分ではどうしようもないことがら、例えば、出自、性別、容姿、家族関係などを、本人を評価する際に問うのはおかしい、ということになってきていて、まぁ、すこしは喜ばしいけれど、

差別してはいけません、と唱えたり、やたらとハラスメントの種類を増やしてみたところで、差別が無くなるわけがない。

じゃあ、どうする?、差別するところから遠のくには。


1937年のキャパ

例えば、ロバート キャパ(写真家、1913~1954年)が、レンズを通して人間に向けた眼差し、といったものに希望を託せるのかな、と今は思っています。

キャパは、1954年4月、毎日新聞社の招待によって来日。

3週間をかけて、奈良、大阪、焼津、熱海、東京の街を訪ねた。

そこで撮影された作品には子どもを対象にしたものがめだつが、これらをみてびっくりするのは、まるで、日本人が日本人の日常をなんの変哲もなくして撮った、という印象を受けること。

日本人に限らず、キャパの手にかかると、被写体が、どんな民族、階級、老若男女であろうと、個性と行動そのものに迫って捉えられているために、これぽっちも異邦人扱いが、されていない。

画面の中、皆が同郷人として振る舞っているんだが、それを惹き出す力こそが、この写真家の才だったんでしょう。

ひとりひとりに肉薄してつきあう以外、いくらキレイごとをならべてみても、友人にはなれない。
そんな視線か、キャパから学ぶのは。

あとひとつ。

人は、写真家に撮影されるために生きてはいない、ということを思い知っていたのがキャパだったように思う。

だから、かろうじて捉えられた人生の瞬間であれば、焦点が合っていようといまいと、構図が破綻していようと、おかまいなしの彼だったんだ、きっと。

(来日の翌月、5月25日。キャパは、北ベトナム(当時の呼称)の地、抵触した地雷の爆発に巻き込まれ、戦場に散った)

では。

朝顔と訃報。

おや、今年最初の朝顔の花、と庭を眺めていた日。

夜になって明日は七夕か、と思っていたところへ、友人からの電話。

敬愛すべき先輩が昨日亡くなった、という報せだった。
どうも、癌だったらしい。

久しぶりの連絡が訃報というのはまったく恐縮ものです、という挨拶だったので、

いや、これも〇〇さん(故人)の功徳のなせること、と思いますよ、と返す。

今夜、星が見えても見えずとも、どうでもいいけれど、ただ、こんな曲を聴いて過ごそうか。

では。

幼い人種差別主義者を 擁護する。

幼い、つまりは、幼稚なお話をひとつ。

フランス代表のサッカー選手がふたり、何年か前に来日した折のこと。

宿泊先のホテルで、そこの日本人スタッフを愚弄している動画を蒸し返され、東洋人への人種差別だ、と糾弾されているらしい。

FCバルセロナという有数のビッグクラブに所属していることもあって、その世界ではそれなりに有名なんだろうから、メディアやSNSなんかにとってはオイシイ餌食になるんだろう。

糾弾に対する釈明を読んでみたら……、

―たまたま日本の地で日本人相手だから、ああいったマネをしただけ。
自分たちの交友の中では、ああやって人を侮蔑することはよくやること。
ただ、気に障ったのなら、謝るよ。
……、とひどく正直に語っている。

特段の悪意ではなく、これからもこの程度の無節操な会話をしながらサッカーやって生きて行くんだ宣言、という感じがした。

サッカーの技量に優れていれば、自動的に、人格的に洗練された知性を有しているわけでもあるまいし、あまり目くじら立ててもなぁ、というのが僕の考え。

渦中のふたりにしたところで、その素養の低さを責められるほどに、高級な教育を受けてきた、とも思えない。

良いこととは思わないが、人種の壁がやすやす乗り越えられる(べき)と思うことのほうが、むしろお気楽な考え。

―フランス人てのは、ケチでねぇ。
そのくせプライドが高い。
こちらが英語で話しかけても、そんな野蛮な言葉を使えるか!、って態度で知らんぷりするんだよ。
そうなると、こっちも頭にくるから、金銭的な話題を匂わせるのね。
すると、お金で損すると困るから、途端に英語で返してくるわけ。

これ、数十年前、昔フランスへ留学した人(故人のフランス語教師) から聞いた話。

結局のところ、人種その他の差別には、こういった個人的な応酬で報いるしかない。

自分の裡に在る差別意識や行動を、いつも検証しながら、その時のために、せいぜい差別の突破口を開けるような武器(もちろん比喩です)を準備しておくことだ。

ただ、フランス人の肩を持つわけじゃあないけれど、パリの真ん中で、大部分が塩化ビニールで仕立てたバッグに群がる若輩の日本人、ってのはいいお客さんなんだろうが、尊敬はできない人種でしょうね、きっと。

僕にしたって、ブランドマークを大きくあしらったポロシャツを着込んだ東洋人などを冷ややかに観てますしねぇ。

とまぁ、あまり熱くなっても仕方のない話題ですが、ただ、ミステリアスなのは、なぜ今ごろになって、数年前の差別行動が蒸し返されたんでしょうか?

もしもですよ、プレイヤーふたりとの契約交渉を有利に運びたい陰謀がそこに在るのならば、これこそ、冷酷なクラブ経営と言えましょう。

もちろん、山雅にはやってもらいたい手法ではありません。

では。

どこに『鷲は舞い降りた』(1977年) のか?

前回記事の末尾。

7/3の夜、アルウィンに待望のゲームが舞い降りた、と書いた僕の心底には、
ジャック ヒギンズ著『鷲は舞い降りた』(原題:The Eagle Has Landed 1975年発表) が在った。

小説は早くも翌年、英米合作で映画化。

日本では、1977年8月13日に夏休み映画として公開されている。

ドイツ空軍空挺部隊の精鋭による、英首相ウインストン チャーチルの拉致作戦(とその挫折) を描いたストーリー。

原題(英文)は、パラシュート兵が、作戦遂行の地、英国ノーフォークの田舎への降下に成功したことを、本国(司令部)に伝えるための暗号、という仕立て。

ドイツ軍人を、魅力と人間味に溢れた人物として描いているところが、なにより新鮮。

主人公のクルト シュタイナー中佐は、プラハでユダヤ人少女を助けたことが軍規に触れ、懲罰的な任務へと追放されていたところを、その能力を買われて作戦実行のリーダーに起用される。

対し、連合国側(米英)の軍人が、無能と唾棄すべき人格として描かれるのは、作者のサーヴィスだろうね。

映画では、クルト シュタイナーを、マイケル ケインが演じている。

彼のベストな演技とは言えないけれど、すこし前の『探偵スル―ス』(原題: Sleuth 1972年)では、ローレンス オリビエと堂々渡りあった演技を魅せて、名だたる英国俳優の地位を築きつつあったケイン。

その彼が、敵国ドイツの腕っこきの軍人を演じたことを、当時(終戦から30年後)のグレイトブリテン人の観客は、どう感じたんでしょう?

例えばですよ。
これ日本ならば、高倉 健が、国民党軍の辣腕スナイパーとして、東条 英機(大戦当時の首相)狙撃作戦に投入される、そんな設定ではありませんか。

(まぁ、これくらい奇抜なシナリオで撮ってしまうようなエナジー、今の日本映画にはないでしょうがね)

マイケル ケインでいえば、『サイダーハウスルール』(1999年)の演技は良かった。
望まれない出産や堕胎に手を染め、その憂さをドラッグで紛らわしては、看護師と関係を続けるような日々を送る、孤児院の医師の役。

実を申せば、『鷲は~』では、作戦の立案責任者である、ドイツ国防軍情報部の中佐マックス ラードルを演じたロバート デュパルを真っ先に推したいのが、萬年。

いままでも、どこかで書いたような記憶がありますが、怜悧なまなざしのドイツ将校を演ったらピカいち、と思います。

小説のほうは、菊池 光の訳で(1976年 早川書房 刊)ハードカヴァー版を読んだような覚えがあって、今回、本箱を探してみたがどうしても見当たらず。

はて、果たして映画だけを観たのか知らん僕?、と、実にいい加減なことです。

でも、本箱を眺めたおかげで『破滅の美学』(笠原 和夫著 2004年ちくま文庫)に再会。
すこし読み始めていますが、ちなみに著者は『仁義なき戦い』などのシナリオライター。

では。