流儀にこだわらず 果敢に!! (新監督の船出)

霜田 正浩氏の監督就任を、家人からのショートメールで知った。

後で聞いたら、既に、昨日のシンマイ朝刊にはその報が載っていたらしい。

意識的なリーク(フライング)、ってやつですな。

決まったからには、ファン&サポーターとしては、これを支持して新シーズンを楽しみにするしかありません。

シーズンパスについての公式リリースもあったことですし。

これから形成される新指導陣によって、おのずから変化の潮流は生じるでしょうから、あまりにも山雅流に固執しなくてもいい、と思います。

萬年にしてみれば、確実に攻撃的サッカーへと変貌するだろうから、それを期待しつつ、

ひょっとしたら、佐々木 匠(愛媛FC) や、安在 和樹(沖縄SV)の加入とか、はたまた、田中パウロとの再契約とかもあるんじゃあないか?、などとの突拍子ない妄想を抱いたり。

誰であってもいいけれど、背番号#10の出現だけは、お願いしますよ。

では。

本気ならば 彼を獲れ。

― 飯田 真輝が、今度はさぁ、と家人。

最近発表された、㈱松本山雅の組織改編の中で、
彼が、強化(編成) 部門へと配転になった件を言っているらしい。

― これまでの、よくわからない役職より、はっきりしていいんじゃぁない?

すべては〈強い〉トップチームを創るための方策なんだろうから、あぁ、そうなのか、くらいに僕は思っている。

企業統治、組織内機能分担の見直しに関することは、外部の人間が、どうこう言うことでもない。

ただ、ステークホルダーに対する説明責任を果たす、ということは必要なんだけれど、あまり丁寧を尽くしてもどうか?、とは思いますね。

ああいうセッティングって、メディアの要求なんでしょうか?

ヘタをすると、山雅らしさ、強さとは?、といった、答えの出ないような堂々巡りの議論に陥ってしまって、ひどく生産的でない。

それほどに、降格、昇格失敗のショックは大きかった、とは言え、自分自身を責めてみせることで、必要以上にクラブを弱くすることもあるまいに。

この後、指揮官選任が、手順の初めにあるにせよ、僕の見立てでは、

ここ5年にわたる、攻撃力の貧弱を克服できなったことが、結果、チーム力を落とした根底にあるわけだから、そこらに集中してテコ入れを、図るべき。

背番号#10 を背負う者が不在、はその象徴でしょう。

堅守ばかりにしがみついたところで、得点できなきゃあ勝ちはないのだから。

たとえば、齋藤 学 (元名古屋グランパス)、あるいは、佐々木 匠 (愛媛FC)を獲って、あのような攻撃的タレントを、山雅で復活させ、活かせるようなチーム創りをしないと、強くすることにあっての、言行一致とは言えませんよ。

では。

滅び去るものにカネを使う愚。

滅びつつ  ピアノ鳴る家  蟹赤し      西東 三鬼

転職して数年、つき合いの範囲もぐっと狭まり、日常も夫婦ふたりとなり、

頃合いをみて、2022年分で、年賀状のやりとりから足を洗った。

昨年末に喪中の挨拶をいただいた御方には、今回、その旨ご挨拶を申し上げることにしてあるから、年賀状は4枚ほどしたため、それで終了。

すこしづつ 生活身軽にしていって やがて迎えん〇〇を

……、とか思っているんです。

こんなささいな個人の話はともかく。

社会全体が、滅び去っていくのが自然な事がらに、手間とおカネを使い過ぎている。

たとえば、人生の終末を迎えつつある世代をより手厚く延命させようとして、社会的な資金を多く投入するような制度の数々。

高齢者介護の分野にビジネスチャンスあり、で走った結果、ハコモノ、訪問システムが僕らの周りにはやたら横行する。

長幼の序を重んずる、社会的貢献への感謝、これは、決して否定しない。

けれど、ムリな延命、過剰すぎる看護がご本人と家族にとって、果たして幸甚なことかどうか、考える時期に来ているのでは?

生物的な摂理にあらがうのもいい加減にしないと、当人、および、次の世代の負担やしわ寄せがはなはだしい。

批判が怖くて誰も言わないけれど、感じているのだ、日本人の多くは。

ところが、来世を想定するような宗教を民族的な根底に持っていないのが、日本人。

だから、現世への見限りが、整然と社会共有されることがない。

つまるところ、現世にしがみつくばかりの規範はなくならないだろう。

昔、シナで近年、万里の長城の石垣が年々消失している。
で、その原因が、周辺の住民が建築資材にするためせっせと持ち去っているから、というニュースを読んだ。

単なる石積みを、文化遺産などといって死守するよりも、現在生きている者の糧にすることのほうが、よほど文明的な生活、と僕は思っている。

もちろん、ご高齢者の存在が無価値、というつもりは毛頭ありません。

では。

きわめて身近な光景なんだが (対スペイン戦)

これを、国際舞台、しかも、ワールド杯の大舞台で実行するとなれば、それだけの覚悟は要っただろうなぁ、と思いながらゲームを観ていた。

といっても、6:00前には家を出る僕なので、集中してゲームも観られず、録画もしていないので、多分に印象論めくことを、お断りしておきます。

― 勝っちゃいましたね。

が、合言葉の朝の挨拶だったんですが、

山雅ウオッチャーからしてみれば、前線から猛プレスを敢行する前田 大然が、
横山 歩夢や菊井 悠介に置き換わるくらいの、ごくごく見慣れた光景がそこには在り、しかも、ふだんからこういうサッカーには慣れ親しんでいない代表プレイヤーが大半だろうから、著しく連動性に乏しいのであった。

(加筆、5 – 4 – 1の陣形は、ラインも下げずにコンパクトだった)

要は、大然の走りも、おおかたムダになっていたんだけれど、これはおそらく、首脳陣の想定内。

大然。
君は、いい意味での〈捨て駒〉。
ディフェンシブセンターフォワード(なんだ、この熟語は!!) のミッションを全うしてくれ。

後は、浅野、三苫らの突破で仕上げるから。

……、そんなところでしょうかね。

ゲーム冒頭数分で、この分だとスペインのパス数は、1,000くらいいっちゃうぞ。

けれども、実は、そこに怖い落とし穴があった。

簡単にボールを繋げる状況が、むしろスペインから攻撃の速さ/鋭さ、意表を衝くようなアイデア、スタイルに変化をつけてみる柔軟性を奪った、と診ます。

もちろん、皮を切らせて骨を断つ、みたいな勝ちっぷりは、これは、殊勲、快挙に違いない。

よくやった。

代表クラスの試合でここまで守備的にやるか!?、が国際的な感想ではありましょうが、そこまでやった決意は、買いです。

勝てば官軍、なんだから。

だって、これがもし敗戦で終われば、それこそ、みづからを弱者に規定するような卑屈なサッカーをやって、とアタマの硬いジャパニーズからは、非難ごうごうだったでしょうからね。

イニエスタ氏などは今頃、母国メディアに、
Jリーグのレベルの高さを思い知ったかい?、と答えているに違いない。

そこに、ビクトル (松本山雅) も加わってもらいたいなぁ。

では。

12月のルーティン『ThanksGiving』

一年最後の月になると、引っ張り出しては、聴いているのが、

ジョージ ウイントンの、『December』(1982年発表) 中の曲たち。

このアルバムが世に出て、今年でちょうど、40年だ。

僕の場合、知って30年以上が経ってしまったが、いまだに、ここへ戻って来たりしている。

師走、などといって、喧騒の中に暮らすのは極力避けて、ひたすら冬ごもり、というのも、やはり無理。

なので、せいぜい曲の中に浸るんですが、なぜか、亡くなった方の仕草が急に想い出されなどして、なんとも。

では。