マティスには,向日葵がよく似合う…

…などと、呑気なことを言っている初秋。

けれど、この季節になれば、かならず、

どこかでだれかが、先の戦争(1941~1945年)について語るならわし。

300万人の日本人が命を奪われたんだから、それも当たり前だろうが、

あれから、時もずいぶん経って、敗戦時にぎりぎり成人になった者は、生きていて 98歳。

10歳だったら、88歳。

要は、戦争を始めたり、旗振りをした者、参戦し得た者は、ほぼ全員が死に絶えてしまった。

正直言うと、

物心ついていなかったから、生れてないから、俺は知らん、を平気で押し通せる時代がやって来ている、と僕は考えている。

そして、どうしてああなっちゃったんだ?、と責めたくなる行動や態度が、テーマが違っても、今の日本には山ほどある、それが僕らの出発点だ。

自分たちの愚行を棚にあげておいて、過去を一方的に断罪もできません。

戦争、について言うなら、

人類史上、戦争は常在のことがらであるし、

日本のまわりには、油断のならない国家だらけ、という発想でなければならず、

核による被爆を専売事項にして、だからこそ我ら平和について発信すべき者、などといったオカシな自己規定は、もうやめることだ。

かりに、被爆国というならば、それを二度まで投下した米国に対する責任追及がどこかに飛んでしまっているような議論は、いくらやったところで死者は浮かばれない。

日本が戦争を起こしたことが、当然の帰結として日本への核兵器使用になったわけでは全くなかった、ということを、忘れてもらっては困る。

このいくさについては、過去一年だと、

伊丹万作(1900~1946、映画監督) による『戦争責任者の問題』(1946年8月発表)が、興味深く読めた。

短文ですし、青空文庫でもタダで読めますよ。

では。

なぞなぞ交歓。

小学一年生の男児と、夏休みの宿題をやる、涼しい場所を、

こじんまりした村立図書館の円卓に見つけた。

(もちろん、下見の際、職員の方からは許可を取りつけてある)

昨日のこと。

ふたつの椅子を寄せたテーブルの片側で、宿題に向かってしばらくすると、

― やぁ、久しぶり!!、と挨拶を男児に投げかけて、同学年とおぼしき女の子がひとり、卓にやって来た。

夏休み帳を覗き込むが早いか、テーブルから鉛筆を取り上げると、

さんすうの引き算を、両手の指を使いながらすばやく計算し、答えを記入してから、

― 半分やってあげたから、こっちの半分は自分でやってね、ときたもんだ。

― ありがとう。君のは筆跡が違うけれど、まぁ、いいか。
じゃあね、こういう引き算はどうかな?  なぞなぞだけど。

電線に すずめが 10羽とまっていました。これを鉄砲で打ったら、1羽落ちてきました。さて、電線には、何羽残っているでしょうか?

― 10 ひく 1、だから、9羽。

― 残念でした!  鉄砲の音に驚いて、皆逃げてしまったので、0羽が正解。

― では、こんどは私の番。

世界の真ん中にいる虫は何でしょうか?

― (すこし考えるもわからず) 降参。何?

― 答えは〈蚊〉。〈せかい〉の真ん中ね。

― じゃあ、次はこれだ。

男の子にはふたつあって、女の子にはひとつしかないものは?

― (すこし考えていたが) わからない。

そこで、やおら、ノートの余白に、

〈おとこのこ〉〈おんなのこ〉と並べて書くと、黙って、こ (の字)に〇をして見せた。

― ふーん。なるほど。

― 今度、友達にやってみてごらん。

……つむじ風ように襲来すると、さらり、と去っていった女児。

この間、5分もなかった、と思う。

ただし、訊いても、〈ゆいちゃん〉という名前しか教えてくれない、小学一年生なんであります。

では。

この夏に 逝く。

ランディ マイズナー (1946 ~ 2023.7.26) が、亡くなった。

享年 77歳。

日本流にいうと、団塊の世代。

元イーグルス(Eagles)の初期メンバーで、このバンドには、創設された1971年から、1977年9月まで在籍。担当は、ベーシスト。

イーグルスは、もともとリンダ ロンシュタット (1946~ ) のバックバンドとして作られたので、出発からプロモ―ショナルな産物だった。

というものの、聴くに心地よいウエストコースト臭が受けて、70年代からその後、かなりの人気を保つ。

全員がヴォーカリストとして一流であるから、そりゃあ、聴きごたえがあります。

今は、こんな動画で、ランディを偲ぶことに。
メインヴォーカルが、彼。

では。

ふたつの技量 (鳥取戦レビュウ❷)

結局は、鳥取による小松 蓮封じが奏功した、ということでしょうか?

相手の出方にもよりますが、

みずからボールを動かして攻撃にとりかかるスタイル。

山雅は、各個やチームとして、だいぶ練達しつつある、と思います。

もちろん、ゲームの中でどれだけ効いているかは、3部リーグにおいて、といった条件つきで。

センターバックとサイドバック、あるいは、ボランチとのパススピード、パスワーク、ボールを失わないためのターン、など上手くなってます。

けれども。

サッカーの複雑さ、機微、とでもいうべきか、

ボールを持っていない側が、ボールを持たないことでむしろ、ゲームの流れを左右し得るのも、また事実。

どの程度、ボールホルダーを追うのか、あるいは、どこまでやらすか、ということによって。

今節の鳥取の場合は、

先制逃げ切り、つまり、攻めさせても急所を守り切る、そして、あわよくば、カウンター的に相手ゴールまで一気に迫る、ここに傾注した。

で、山雅は、しっかりとガードされたグラブの上から、有効打をヒットできなかった。

ボクシングのセオリーだと、ボディーを打つなどして、ガードを下げさせてから、顔面を痛打する。

一昨夜だと、鳥取にガードを降ろさせるってのは、具体的には、どんな戦法の発動であったのか?

言われているような単に、クロスの精度、質ばかりでもありますまい。

僕は、前線プレイヤーが横一線になってしまうことを修正しないと、シュートコースは、なかなか見いだせないと思っています。

今後も、互いの力量関係から、多くのゲームでは、そういった傾向になりやすいから、

ここをキチンと精査、分析して次につなげることで、おなじ轍を踏むこと無きようにするしかない。

テクニックといった個の技量におおいに基づくところの、もうひとつの技量。

つまり、チームとしての技量、
いいかえると、相手からしたら、弱点を衝かれる〈いやらしさ〉のようなもの。

実直でありすぎる現山雅に、果たして、それをどの程度求めていいものか?

ためらいつつも、やはり、期待したくもなる、それが本心です。

では。

痛し痒しの 申し訳なさ (2023.8.5鳥取戦レビュウ❶)

先制されたのをひっくり返せず、1 – 2 で終戦。

0 – 2 にされると、(勝つためには) 3点獲らなくちゃあ、と期待することもできる山雅ではあるが、他方、

家人のように、結果としては、そこでジ・エンドだろうな、となる向きもある。

つまり、格好はそこそこ出来つつあるけれど、やはり、まだまだ足りない、強化の余地あり、といったのが現在地。

……、それを〈実力〉と呼ぶべきか。

負けると、どうしても不足点ばかり追及され、ひとつひとつあげつらってもいられないけれど、とにかく、

小松 蓮が(たしか) シュート 0 だったはずなのが、ゲームをモノにできなかった象徴、でありました。

前節と同一のスタメンでゲームを始めるのが、スジであったろうし、

(おそらく小松対策で) 鳥取が4バックに変えて来たのは意外でしたが、

後半、ワンサイド的にやれるようになったにせよ、プレビュウで予想したとおりの、

むづかしいゲームになりました。

予想が的中しても、敗戦となれば、

痒しのほうなどどうでもよくて、痛しばかりのことでございます。

では。