決定的な敗因は? (八戸戦レビュウ❷)

少なくとも、ここ3年くらい (適時に修正を加えつつ)

山雅が取り組んできたのは、

スキルフルな個人技を、キッカリと連携することで活かすサッカー、だと思っている。

そこでは、攻守を一体のもの、とみなすから、

プレイヤーが連動し、瞬時の反転切り換えを可能にするためには、

〈コンパクトな陣容〉が、始めるための基本動作のはず。

攻めるために守備をこなし、

多彩な方法で、相手のゴールネットを揺らす、それを具現化すること。

……これらをくくって〈上手い〉と称する。(僕による勝手なネーミング)

☞筆者は、そこに〈巧い〉(巧妙、老獪)を織り込め、とつねづね主張する。

ただ実直に、マジメにやれば、ゲームを獲れる、というのは、あまりに無邪気な幻想で、

巧くやるためには、キャプテンシー(フォーマル、インフォーマル両面)と、チームとして、相手の弱みやスキを衝くための仕込みが、不可欠。

さて。

八戸戦では、コンパクトさを保つべき陣形が、

縦に間延びしたことが、ゲームを獲れなかった根本の要因。

陣形が緩慢になったわけは、

❶マンツーマン式に食らいつく八戸のプレッシャー、❷ロングボール対応のため、最終ラインがどうしても後方へ引っ張られた、そのふたつ。

(これ、リーグ戦の vs FC大阪、との相似でもあり、割りきったチームとの対戦時には教訓として活かせ)

註) ならば、フィジカルコンタクトの強度をあげよ、を注文するのはちょっと違う。
強度は否定しないが、そこだけ、あげつらってもムダ。
山雅のプレイヤーは、その面であまり遜色もないし、

いまの流儀だと、まづは、相手を〈交わせる〉〈置き去りにする〉技量と連携アップを究めるしかないが、

悲観的な見方をすれば、この部分で、個のスキルが深化するのは、3部リーグでやっていると、かなり難しい。
つまり、より上のリーグで、体感的に揉まれないと。
だから、ルヴァンや、天皇杯の対戦は、
チャンスとして大切。

ま、このゲームだと、実効的な対策は、

前半、村越が後方からのプッシングで倒された際に、それをファールと認定しなかった(当日の)ジャッジ基準を、

チームの共有事項として、頭の中に強く算入しておいて、それなりのチャージをおこなうことだったのではないか。(こういうことを巧い、という)

で。

陣形的にいちばんのダメージは、

ボランチの位置取りが、低くなりがちで、かつ、不明瞭、中途半端になり前線と基底ラインのリンクに不足したこと

相手ロングボールを競った味方ディフェンダーからセカンドボールを回収するためには、後方に寄せねばならず、

逆に、大内からのロングフィードのセカンドボールを入手するには、最前線に近く張らないとならぬ。

☞ この二律背反を、どう解消するのか?

指揮陣が打った解決策は、

後半冒頭からの、4 – 4 – 2 へのチェンジだった、と診るけれど、

そこらは、レビュウ❸で。

では。

この敗戦を糧にできるか? (2025.6.1八戸戦レビュウ❶)

ゲーム始まりの 3分の1 までの時間帯に失点すると、そのままスコアを動かせずに経過して、

0 – 2 の負け。

先制されると、その先には敗戦があるばかり。
これには理由があるはずですが、現状ではただ、ならば〈先制するしかない〉としか言えませんな。

勤務の関係で、DAZNの前でゲームを観られたのが、前半も半分が終わってから。

なんだよ、すでに、2失点を喫している時分。

で、初めから観返していると、そこへ仕事から帰宅した家人が、

― 負けは負けよ、なによ、あのシュート数(少なさ)。

つまりは、負け試合など観るに値いしない、と。

いやいや。

それじゃあ、オール オア ナッシングでしょうに、リーグ戦は、まだ続くんですぜ。

さて。

ヴァンラーレは、やはり、プレビュウで予想したとおりで、

ボール奪取のためには、マンツーマンの様相もいとわずに、手を緩めず相手に詰め寄り、

かつ。

おそらくは、チーム内の約束、規律として、

パス3つ以内に、かならず、サイド方向へロングボールを送り込む、そんなサッカーでありました。

あらかじめ、わかっちゃいるのに、

こちらが、それに対してやるべき手が繰り出せなかったこと、それが敗因であって、

特に印象論で、因果性を見間違ってしまうと、

球際の攻防、ボールへの執着で相手に劣ったから、そこが問題

……みたいな愚論に陥るから、ご注意ご注意。

未練がましい言い方ですが、

その不在によって山本 康裕の偉大さが了解されました。☜ これは、プレビュウ❷のヒント。

あとは、失点の件。

敗因 = 失点したこと、などといった暴論は決していたしませぬが、

中途半端なパス(二ノ宮)とか、地面スレスレのボールを、なにもヘディングでクリアしなくたって(松村)、くらいの戒めにとどめるミスに思えますけどね。

では。

持つ覚悟を決めて,前へ (八戸戦プレビュウ❷)

リーグにあっては、

我らよりも善戦している、と評価すべき八戸。

となれば、こっちはひたすら挑戦者だから、覚悟も明確だ。

で、対抗のための、処方箋の眼目……。

ヴァンラーレ不動の、中盤の要であるからこそ

まづは、相手ワンアンカー(彼ルーキーなのか) の仕事を封ずることを優先。

センターバックとの連携を、そのパスコースを消しながら、グッと押し込んで前向きに良いボール配球をさせないこと。

向こうは、サイド優先でくるから、

クロスを上げさせない、入れられても中でフリーなプレイヤーを生まない、アタリマエの、地味な仕事をやり続けましょう。

先発を獲り続けていることの自負と矜持、そういう部分を、敢えて衝かなくっちゃ、しかも〈巧く〉。

現況。

僕からすると、(これは、ご本人にも申し上げたのですが)

早川監督への信頼感は

サッカーにおける試行や修正が、特に、プレイヤー登用と選択の側面から、かなり説得力が在ることに発する。

主要選手の離脱や怪我を踏まえて、それでも、抬頭を促しながら、という流れがわかりやすい。
(もちろん、当方の勝手なストーリイが紛れ込んでいるにせよ、だ)

となれば、一戦一戦を、チーム造り込みの貴重なワンステップとして観たくなる。

特に、各自の役割分担のこなしと、連携の深まりを。

いま。

最上ではないが、後方(守備陣)に一定のメドがつき、落ち着きをみせているので、

攻撃する面では、

枠内シュート比率は、上々だが、その母数の増大が、ひとつ。

つぎに。

試合巧者を表現できる、セットプレイとコーナーキック本数の増大が、ふたつめ。

ボール奪取が強みの八戸ならば、上手くファールをもらって、フリーキック数はそれなりに獲られるでしょう。

が、やはり、ゴールライン際に押し込んでの、コーナーキック獲得が肝。

その回数を増やし、立て続けのコーナーキックからの、波状的なシュートとゴールで魅せてください。

これをあくまで、コンパクトな陣形を保って、前後に俊敏にやることを大前提でおこなう。

結局、おそらくはボールをより多く持つ、待たされるほうに回る。

陣形が緩んでスペースがかしこに出来ると、カウンター攻撃の餌食になりやすいわけで、

たとえ、ディフェンダー裏のスペースを使われるおそれがあっても、

ロングフィード(by大内) の活用をやりながら、

勇気を持って、守備ラインを上げる(オフサイド狙いのコントロールして)ほうがリスクが少ない、と思います。

なんなら、クロスカウンターの裏狙いを時折見せながら、とにかく、押し込め !

では。

〈磐石〉サッカー,とやるのです (八戸戦プレビュウ❶)

ヴァンラーレには、昨季、2戦して 2敗だった。

唯一の 2連敗のお相手。

そこが、

監督は留任し、14名ほどのプレイヤー出入りがあったとなれば、

〈石崎サッカー〉に、より磨きをかけて今シーズンを戦っている、と考えていい。

順位的にも、プレイオフ圏内にとどまっているから、まづは狙いどおりということだろう。

ひとつひとつのゲームも、手堅くやってる印象、つまり、スコア的に大崩れしていない。

さて、その中身。

3 – 1 – 4 – 2 の布陣を採り、

このうち、1のところは、#6 が、13ゲームに出ずっぱり。

いわば、不動のワンアンカー。

しかもしかも、彼を含めて、

ゴールキーパーを含めた先発 9人を、ここまでの全ゲームで先発固定して、戦っていることが、いちばんの特徴で。

これって、特筆モノでしょう?

おそらくは、

4 のあたりで、相手からボール奪取する(奪取はリーグ1位)と、

ツートップと、二列目の 4人が一気に、主にサイドを侵してゴールに迫る、と診る。

できるだけ、高い位置で反転攻撃に打って出たい、要は、ショートカウンターのサッカー。

しかも、ドリブルやパスよりは、ロングボールの活用を、選択か。

……粗描すると、こうなります。

その処方箋は、プレビュウ❷でもって。

では。

Good Dog Happy Man

ビル フリーゼル(1951~)が、1999年だから、およそ四半世紀前に発表したアルバム名をもらって、

そのまま、本記事のタイトルとしました。

職場のヴァン氏が、最近。

17年間連れ添った愛犬を亡くし、イマイチ元気がないこともあり、その酒量が増さないことを祈りつつ……。

さて。

僕の場合、アルバムを購入する際、多分に、ジャケット写真の良し悪しで選ぶ。

特に、ジャズ(と僕が思う)音楽は、洒落た写真、またはイラストだと、

その内容も優れている、と思い込んでいる。

フリゼールだと、『blues dream』(2001年) は、手に取って、即、購入した。

☟これが、そのジャケットの表紙。

これなど、ジャンル分けは無用で無意味、このアメリカ合衆国で生きて来た俺が紡ぐ音楽を聴いてくれ、というメッセージそのままのイラストに違いない。

……ならば。

その音楽に惹かれて同調しているこの自分とは、一体何者なのか?

……という疑問や不審感を感じることが、けっこうあります。

で、今回は。

その〈Good Dog Happy Man〉から、『Shenandoah』を聴こう。

シェナンドウは、米国の民謡で、シェナンドウ河とか、ミズーリ河への郷愁とか、いくとおりかの歌詞があるが、

開拓時代(19世紀)を歌っているから、要は、アメリカそのものでありましょう。

まぁ、心に沁みてくれば、どこの国の音楽だって、いいんですけどね。

セッションには、ライ クーダ―(ギター)や、ジム ケルトナー(ドラムス)も参加しているから、僕にとっては、ボーナスみたいなもん。

では。