試しは続く。 (宮崎戦レビュウ❷)

あと、ひとつ

宮崎戦での不足は、(ジャッジ基準やその適性議論はともかく)

みづからの攻撃の芽を摘むような、要らぬ場面でのファールが目立ったこと。

山雅が犯した反則は、12個くらい。

これは、2024季のゲーム平均11個と比すと、それほど突出してはいないが、

とにかく、フリーキックを相手に与えることで、ゲームの流れを、向こうに渡した格好になった。特に、後半は酷い。

お互いさまであるけれど、後方から強くアプローチすれば、相手はファールを貰おうと意識するわけで、その点、もっと賢く立ち回ろうよ。

❶こっちがチャージしていて、空いた後方へと3番目に侵入してくる相手をフリーにすること。

❷相手よりボールに出遅れることを、ファールで止めてしまうこと。

このふたつは、守るシーンで、今後、克服しないと。

以前にも指摘しましたが、

昨季の主力の大方が残ったから安堵、というのは、親和性のみのお話であって、

安住を惜しまずに、新しい効果的チャレンジがなければ、いままでと同様、

成績的には、勝ったり負けたりの〈シーソーサッカー〉が繰り返されるだろう。

……という視点で、僕は、当分は、観続けることになるが、

消化した3ゲームでは、ゲーム毎、試行は続いているから、その点は評価したい。

結果(戦績)からさかのぼって、チャレンジをどうこう云々する時期でもあるまい。

その文脈では……

杉田 隼のセンターバック起用は、けっこう手応えがあったのではないか。

やっかいな相手センターフォワードとのやり取りも冷静にこなし、
(被ファールの仕方もソツがない)

かつ、基底からのボール持ち出し、前方へのフィードにセンスを感じた。

これで、高橋 祥平をベンチに温存しているのだから、贅沢な話。

なお、3バックに変換した際、宮部を左に持ってこられるのは重宝だから、

今季は、かなり流動的に、4 ☞ 3、3 ☞ 4、を機をみてやりそう。

(ただし、この変更は、ボランチを含めた、プレイヤー同士の距離を、適正に確保することをテーマにしないと、無意味)

ルーカス バルガス
終盤10分間の投入。
首脳陣の意図を感じて、それをプレイに表現しようとする姿勢が観てとれた。

ただ、ロングボールの競合を、落下地点でやりあう経験は、母国では乏しかったように見え、

彼の良さを活かすには、ロングボールの質とともに、

空いたスペースへ走り込みながら収めてもらう、といった工夫が必要に思う。

石山 青空、松村 厳は、ほんの顔見せ。

そして、本間 ジャスティンもベンチ入り。

楽しみは、ますます続きます。

では。

足りないものを整理する(2025.3.9宮崎戦レビュウ❶)

結果は、0 – 0 のドロー

ラスト20分の、クロス被弾しまくりを観て、負けなかったことが救い、とするのか?

それとも。

ドリブルからのシュート未遂や、ゴールマウス外しをいくつかみせられて、攻撃の未完を責めるのか?

コップに水が半分も残っている、いや、コップには半分しかない、同じ現象なのに、どうとらえるの?、みたく、

観る者の視点が、求めるものの高低、過去の経験による縛り、原因と結果の推定、

そんなものでそれぞれ違うから、サッカー批評は、心象に多くゆさぶられる

だから、正解など端から期待するな、ってことか。

DAZNで一緒に観戦していた息子に、

前半は、8割方、山雅がゲームを支配していたと思う、と話したら、

猛烈な反駁を受けてしまったが、

おそらくは、息子の期待値が、萬年よりかは遙かに優っているせいだろう。

右に #20、左に #10の突貫タレントを配し、ワントップにボールの納まりの良いタッパあるフォワードを置いて、

山雅の攻撃をひっくり返す格好で、ゴールをめざす宮崎のスタイル。

確かにそれは脅威なんだけれど、やはり、前半は山雅がほぼ制していたと診たい。

ならば、後半は?

後半の、我がチームのあり様を〈失速〉と評するのは、まったく違う。

攻撃の〈勢い〉は、ゲームをとおしてそれほど変わっておらず、

相手の攻撃時間が長いのを〈失速〉と表現するのには賛同しない。

特に、70分以降。

ディフェンシブなタレントを投入し、みづからが守備網を拡げ、ゴール前も固めたのだから。

だから、無失点に抑えたのは、ひとつの成果と評価されるべきで、

入ってくるボールに先手で対応していたのは、ほとんど山雅のほうであった。

そこには、高身長のプレイヤーを活かせない宮崎の不足もあったにせよ。

……で、次節以降のカイゼンのヒントとして、(実現可能な)不足についていくつか。

❶待ち構える態勢は、4 – 2 – 4。
アンツバを欠き、左から、菊井、國分、浅川、村越と並ぶ。
(ただし、#10には、かなりの自由を与える)

菊井を左端に配すのには、そこからの崩しとクロス投入を期待してのことと考えるが、

これが曲者で、おかげで、山本 龍平の立ち位置を希薄にした、つまり、役割りをあいまいにした。

対峙する 宮崎#20の丹念な寄せの前に、それを突破するチャレンジが皆無だったこととあわせ、菊井をオーバーラップして突進する動きに乏しい。

さらに、13分頃、村越が左サイド前方に斜めに走り込んだ際、そこへボールを出さず、後方に下げてしまうには、大いに不満。

サイドで優位性を獲れなかったことで、宮崎のクロス投入を助長した、と言って良い。

で、國分は、本来ボールを左右に捌くボランチタイプであると思うので、最前線に配置するなら、前田、田中でしょう。

となれば、菊井は、2列目の中央トップで、基底に安永、山本 康浩と、正三角形を形成するのがよく、

前線は、山口、浅川、村越 (左右はどっちでも良い)で、が僕のご推奨。

では。

アベちゃんと衝突する。

彼が、ハウルの動く城(2004年)、をえらい高く評価する。

なので、

宮崎作品は、新しい〈神話化〉を追求しているように思える。

だとすれば、風の谷のナウシカ(1984年発表)で、既にその最高点に達しているから、

それ以降は、同工異曲の焼き直しに過ぎず、

いまさら、採りあげるものがないよ、とか感想を述べると、

いやいや、あのカテゴリーは、

その作画(美術的な)が、重要な要素を占めるし、その点、ハウルの~は素晴らしい、という。

そうかなぁ。

もともと日本のアニメーション動画は、安価な制作方式(それ自体は否定しない)で作られていて、

発信(制作者)、受信(観客)の双方が、そういう技法的な枠組みを了解した中での、画仕事。

人物の動きを、解剖学的に捉えて再現してみせるディズニー作品群には及ばないのでは?

……親子ほどに年齢の隔たったふたりに、こんな会話が成立すること自体、

この80年間、日本のアニメーション界隈には、制作システムにおける断絶がないのだろうか。

では。

メリハリは大切 (宮崎戦プレビュウ)

知らないことは、解からない。

山雅のほかは、対戦相手となる時以外、ほとんど関心もないので、

だから、テゲバジャーロ宮崎についても、あまり知ったような事も書けない。

……と言ってしまうと、身も蓋もないから、少々。

宮崎について。

先季あたりのデータをみると、

まづは守備からのサッカー、と診る。

それも、出来る限り高い位置でボールを手に入れたい、といった。

こういうのを、〈守備的〉と呼ぶのには、チト抵抗がある。

(だとすると、山雅のサッカーも、守備的となるが)

リセットするのに、守備から始めたいだけの話としておこう。

で、今季。

下川 陽太の加入によって、その左サイドが、特に活性化している感があって、

そこに、あるいは、そこから、FW橋本、MF#10井上らが絡むとかなり厄介そう。

対し、山雅について。

成果のために踏むべき手順は、前節や前々節と、それほど変わるわけもない。

変化としてみられるのは、

前後(守功のスイッチ切り換え)への連動に、より規律性と速さを求めようとしていること。

ただ、現在、これを 90分間持続できないでいるのと、

一本調子でやって、果たしてゲームを握れるのか、というふたつの側面があって、

ゆえに、ゲームが止まった際は、こっちに時間の流れを引き込むような手練手管を使うべき。

☞ 今のスタイルで、ゲームをとおして圧倒できる技量を養わないと、リーグ無双はとてもできない (追記)

幸いにして、前節の奈良のように、宮崎は、敢えて低い位置でボールを動かすことで、こっちの陣形を崩そうと図るようでもない(あくまで仮説) から、

真っ当に、自分流のサッカーを全うする、これでいいんじゃあないか?

ただ。

こっちの右サイドに負担かかりそうなんで、

野々村が引っ張り出された時の手当て、つまり、ひとつ内側に入ってくる宮崎のプレイヤーを阻止すること、これは準備しましょう。

と同時に。

ルーカス バルガスと伊藤 陸音(2種)の選手登録が完了したことのほうに興味はいきます。

では。

喜ばないアルウィン,に関する考察 ❷

さて、

感情論に走ってしまう、みっつめの、絶対的な大要因

それは、

ゲームをどこからみていようと、一緒に闘う、と言ってみても、

観客は、決してピッチでプレイしない、ただ、観るだけ応援するだけ。

そして、展開されるプレイの連続と、ゴールと勝敗(いわば結果)を、味わうだけ。

当たり前だろうに、と言われそうですが、

これは、決して、動かしようのない桎梏。

さて。

なぜ、感情論で語ることが危険かと言えば、

過去、現在、将来にわたり

クラブとチームの勢力と意欲、それと、ファン&サポーターとの共闘を損ねるからだ。

山雅が、かならずしも期待される成果を挙げていないと、こういう傾向は、よけいに目立つ。

ただし、その期待値が、クラブ/チーム力から妥当であるか否か、は別の問題で、これだって感情で染められやすい。

勝率 58%。

と、歴代最高値を叩き出した名波体制(2022季)でさえ、

上位リーグへ導けなかったことからか、良い評価はほとんど聞こえてこない。
(根底には、3部リーグを見下す態度が僕たちに在るからだろう)

アルウィンが、果たしてプレイヤーを鼓舞しているのか?

今一度、それを考えてみないと、チームにばかり〈強さ〉を求めるのは、アンフェアだ。

ひとつの成果が出るには、それ以前に仕込みがチャレンジされるはずで、

たとえば、奈良戦でアシストを記録した #22 佐相の(菊井を狙った)前方フィード。

あれを、佐相は、ゲーム中で 3回はおこなっていて、そういった一見ムダにみえる仕事を見逃したくはない。

果敢にチャレンジしたが、成就しなかった縦パス、

実は、受け手が走り込まなかったのに、誰もいないじゃん、と一笑されるロングフィード、

そんなものが、すべてミスとして、ため息で断罪されるような現象が、

チームを鼓舞しないことを、

そろそろ、アルウィンは気づくのがよい。

結実させるために払われた、地味なルーティンとムダに思える仕事を救え。

ゴール後のハイタッチは、まったく喜ばしい。

ただし、喜ぶココロが、同時に、不興、批判を発するココロにも転化することを自覚せねば。

所詮は。

飲み食いしながら楽しんでいる観客と雰囲気(舞台)には、

そんなものを求めるほうが酷なのかなぁ、と思うものの、

やはり、チームに変われ、と注文するのなら。

(僕からみると、チームはあきらかに変わろうとしているのが2つのゲームを観てわかるので)

こっちはどうするの?、ってお話です。

では。