つづく土壇場, 勝ち点1 を拾う (2023.11.12福島戦レビュウ❶)

土壇場……。

もともとは、斬首刑のために築かれた盛り土、をいう。

これが、せっぱ詰まりに詰まった場面に転用されるようになったおかげで、

僕らファンサポーターは、冷え込む初冬を迎えてもなお、ぎりぎりと熱い週末をクライマックスとかいいながら、送っていられる。

なかには、既に来季の話でもちきりのチームもあるわけだから、それから思えば、なんという至福か、と思うべし。

さて。

第35節は、同点にされて、1 – 1 のドロー。

悲観的な者は、勝ち点2を失った、などとたわごとを言っているに違いないが、

もともと2位に滑り込む可能性が数パーセントのところで勝負をしているんだから、

ビクトルの再三の好セーブ。

それと、相手の素早いカウンターにかなり手こずりながらも、

攻撃を続けたチームがもぎとった、アウェイにおける、勝ち点 1、と考えます。

ようやく、

これで、順位では、昨季なみの 4位にたどり着けたことでもあり、

自分らの力をさらに謙虚に、厳しく見積もったうえで、

ラスト 3戦に向かって爪を研ぐ、ってもんでしょう。

チームはもちろん、ファンサポーターも。

最後に。

石丸さん(愛媛監督)には、衷心より、おめでとうを申し上げます。

では。

『小倉日記』から。

(ライトアップに浮かぶ小倉城、by ジョー氏)

ジョー氏から、

北九州には、『小倉日記』という名の、有名なお菓子があると聞いた。

1899年(明治32年)。

森 鴎外は、置かれて間もない陸軍第12師団の軍医部長として小倉に赴任し、そこで、2年余りを暮らした。

その地で書き綴っていたのが、『小倉日記』。

後年。

夏目 漱石の葬儀で、芥川 龍之介がその受付を務めていたら、

なんともいえぬ気品をたたえた人物が訪れ、その雰囲気に圧倒された。

この紳士が、会葬簿に記帳しているのを覗くと、

森 林太郎 (鴎外の本名) とあった。

……このエピソードの出典がどこなのか、僕は知れないけれど、

こういった出来過ぎのお話しはやはり、誰かの創造に違いない、と思う。

では。

転んだら起きるだけ (福島戦プレビュウ)

福島ユナイテッドとは、7月にアルウィンでやって 1- 2 で敗戦している(のだった!)。

が、恥ずかしいくらい、ゲームに関しては記憶に残っていない。

想い出したくもない、といった潜在意識が強いためかも知れない。

が、それよりも、

リーグ戦が進むにつれて形成されて来た現在のチーム像が、当時とかなり違っていることが、その最大の理由だろう、と思う。

それほどに、夏の移籍加入を経て、我らがチーム容貌とサッカーは、ずいぶんと変容した。

僕からすれば、おおかたは好ましい方向性なんだけれど、
(ただし、ゴールキーパーの起用だけは、消極的で論外)

ひとそれぞれの数だけ、ご意見ご要望があるに違いない。

もっと誰を使えとか、こういうサッカーをやらなきゃあ、勝てん、とか。

ならば。

警告累積と、受傷とで、主軸ふたりを欠きながら、さぁ、福島に乗り込む、となればですよ、

直近とは、ふた味も違った、チーム表情と、新味なサッカーを楽しめるではありませんか。

フライングを怖れずに、率直に言わせてもらうなら、

この際、来季のシュミレーションまでやってしまえるじゃあないかと、ポジティヴに考えたほうがいい。

ただし、チーム山雅としての連続性からすれば、ホームでの敗戦から 120日を要して獲た進化と、深化、

それを魅せつけたいよね、福島の地で。

……ポイントはふたつ。

❶福島は、セットプレイから始まる攻撃を得意にしている感があり、

かつ、両者の地力差からすれば、

攻守の、基軸的な形勢がチャラになる場面、

つまり、ゲームを止めてから始めるそのシーン、

これを活かしたいはずなんだから、フリーキック、スローインなどリスタート時の隙、すなわち、マークの緩みやスペースの開放は、禁物。

❷相手はどうか知らんが、こっちは、引き分けでもダメなわけ。

そういう状況からくる、採らざるを得ない戦法と心的な負担を克服すること。

要は、闘争において、(精神論でなく手法によって)自分らに克つ、がこのゲームの価値。

それを魅せてもらいましょう、福島で。

では。

権威を借りて来る。

吉田 健一 (1912~1977 文芸評論、小説家) が、いまから半世紀前に、こんなことを書いている。

……この頃、新聞その他で目に留まる最も不愉快な言葉のひとつに、何々と言われているというのがあって、もっと簡単に、そうであると書けばよさそうなものなのに、それをそう言われていることにするのは、責任回避の目的を果たすばかりでなくて、そういう表現をした方が信じられやすいところにからくりがあるのが感じられる……

(原文の歴史的かなづかいを、萬年が改めた、下線も付記した)

こういう事情は、いまも、あまり変わっていなくて、

要は、自分の発言に対する他からの反論をあらかじめ想定するので、それに向かって、なんらかの権威づけをしておきたい。

そういう時の、常套句なんだと思う。

極論にはなるけれど、

他人の好悪にびくびくしない個人主義を、いまだに曖昧にしておきたい身につけられない僕ら、

そんな事情背景が、こういう言葉を使わせるんだろうか?

せいぜい気をつけたいものだ、自分の生み出す文章や態度には。

では。

ようやく,ひとつの気づき (アルウィンにて)

10月半ばの、対長野戦で、

スタジアムに、ふたたび戻りつつあった、或る気配を感じて以来、

ここしばらく、考えていたことがありまして。

それとは、

アルウィンが僕らを惹きつける、その魅力とは、一体どこから来るか?

といったようなこと。

もちろん。

そこに足を向ければ、

我らが山雅が、ピッチに登場して闘うからなんですが、

それでは、味も素っ気もないお話。

で、ようやく、〈当意即妙〉という言葉に辿り着いた。

当意即妙 ☞  すばやくその場に適応した機転を効かすこと、また、そのさま。

いまの時勢だと、レスポンス(英語)、とか使いますね。

おさらいすると、

ゲートをくぐってピッチを望んだ瞬間から、ひらけた僕らの眼前に満ちるもの。

それは、

スタジアムに、歓迎、鼓舞、称賛、ときには不満(BOO)、それらの感情や情緒が、シーンのつどつど、間髪を入れずに、歓声、歌唱しやすいチャントや、手拍子、拍手に乗せて表現される。

約束事として、組織的な応援という形で、観戦に組み込まれてしまうルーチン。

観戦者は、自由に、強制もされることなく、その中で、ゲームに浸っていられるだろう。

ボールパーソン紹介から始まって、それぞれが自分なりに参画する、そんな雰囲気。

……、どのリーグに参戦しようと、いかなる対戦相手であろうと、アルウィンがこういった魅力を保ち続けている限り、保たせられている限り

山雅は、間違った道を歩むことはあるまいな、と思っていたら、

北Q戦の際、

チノ氏から、新聞の、コラム記事の切り抜きをいただいた。

丁寧にたたんだ紙片を拡げると、それは、10月30日信毎13面、

絆、のタイトルで、田中 隼磨氏 (松本山雅エグゼクティブアドバイザー) の寄稿。

冒頭。

10月の対長野戦の観客が、先年より 3,000人以上少なかったことへの危機感が吐露され、
クラブやチームがより、地域の人々と思いや姿勢を共有して共闘することの価値が訴えられていた。

上に書いたようなアルウィンの魅力を良しとする僕でもあるから、

田中氏の主張には、おおいに賛同する。

……そして、ラスト4戦の共闘ぶり(単にゲームの勝ち負け以上のもの) で、チームとファンサポーターは試されるわけです。

では。