嫌われるには訳がある。

やはり雪もようとなった、3月5日。

かねてより自分に課してあった義務を果たしに、

松本美術館へ出かけていった。

当日は非番、しかも、この天候ならば、会場も閑散に違いない。

ゆえに、心おきなく〈仕事〉ができよう、と踏んだのだ。

撮影が許可されているロートレック展の、出品された素描を、とにかく我が物にとする仕事が。

結論からいえば、

全部で 300枚弱をデジカメに撮り込み、パソコンにフォルダーとして保存した。

ロートレックの、(石版画の線描の)下絵、いわば、舞台裏みたいなものが、どうであったのか、

どこまで対象をとらえようとしていたのか、いなかったのか?、

そのテクニックはいかほど?

そんなことを伺い知れる機会はメッタにない。

撮影は許可します、どうそ。

といっても、何点かのポスターをのぞき、くまなく写真に写し獲られる事態を、主催者側、

すくなくとも、会場の監視員が、あらかじめ想定しているはずもなかろうから、

思ったとおり、有形無形の牽制が入る。

展示台に、スタンド型フォトフレームに入って置かれた素描群。

これを接写するには、いきおい、台の端に肘をついてカメラを固定する体勢になってしまう。

これをやっていたら、すかさず、

― はい!、展示台に触れるのは止めましょうね。

まるで小学生を諭すような口調で、教育的な御指導が、ジジイに向かって放たれる。

招かれざる〈客〉を、不興を押し殺し、やんわりと封じ込めたい気持ちは、痛いほどわかる。

あれだけ接写していれば、作品に近づき過ぎとの理由で、退場も宣せられたように思う。

ただ。

こっちも、1,600円と、千載一遇のチャンスを逃したくないから、

約1時間の静かな闘いが、続く、雪の日であった。

自分にとって、特に、自分だけにとって、大切なものを死守しようとすれば、

傍からみると、かように、ぶざまな光景になるものだが、美術館のご担当には、その忍耐に感謝しよう。

では。

要らん課題魔は葬り去れ。 

積雪によって、ゲームが取り止めになるのは、仕方ない。

ただ、その事態をつかまえて、

寒冷の土地でやること、秋春制でやることの〈課題〉論を、さも、したり顔でもの申す機運があって、

僕からすると、秋春制にとっていちばんの課題は、

そういった課題魔が横行することに違いない。

よほど他に書くことのない人間の、退屈しのぎの仕事だろう。

だいたいが、

こっちの努力をもってすれば変えられる事項を、課題と呼ぶのであって、

春秋制だろうと、秋春制だろうと、

やって来る雪、嵐は不可抗力なんだから、その都度、開催の判断をすればよいことで、厄介な事象ではあるが、なんら課題視して、大騒ぎすべきものでない。

秋春制の冬季中断期間によって(Jリーグ発表の)、

現在と大して変わらないゲーム開催時期が判明した今になっても、

積雪期がシーズン中とかぶる、と未練がましい。

そんな暇があるならば、やるべきは、その先ですよ。

つまり。

どんなシーズン制であっても、

松本の地で、サッカーを観戦するスタジアム環境をよりしのぎやすくする手立てでも提案せよ。

僕は前から、せめて、

シートヒーターの導入、さらにできれば、アルウィン全屋根が、カイゼンできる内容と思っているが、

今回の座席改良には、シートヒーター設置は残念ながら含まれていないらしい。

まぁ、アルウィンについては、松本山雅は、使用頻度を背景に、お願いする立場でしかないが。

ゆえに、残る〈課題〉は、

冬季中断中、チームコンディショニングをおこなえる環境(松本の地での)、

あるいは、温暖な地におけるミニキャンプ実施の費用捻出、

……こういう点に絞られる。

積雪が、厳寒が、といってそんなに騒ぐならば、

松本の街が、

(もともとがウインタースポーツである)サッカーチームのホームタウンをやってちゃあいけないのだろうし、

なんなら、よりあたたかな、伊那谷あたりに本拠を持っていくのはどうか。

で、山雅と長野のゲームがあったら、その際は、アルウィンを使用すれば?

では。

『春のからっ風』(1973年)

もはや、半世紀前に発表された曲。

まぁ、そんなのは、めづらしくもないが、

アベちゃんに、知ってるかい?、と訊ねたら、

返事は、No。

二十歳そこそこの日本人が知っているほうが、きっとおかしいのです。

泉谷 しげる作詞作曲。

へぇ~、曲のプロデュースは、加藤 和彦がやったのか。

リフレインの部分の歌詞……、

 誰が呼ぶ声に答えるものか
 望む気持ちとうらはら
 今はただ すきま風を手でおさえて
 今日の生き恥をかく

……なかなか秀逸な詩だと思います。

僕の中では、この歌い手のベストかな。

では。

お話しにならない……,けれど。

待ちわびたホーム開幕は、降雪によるゲーム中止。

お楽しみは、また、一週間先に。(対相模原戦)

試合開催に責任を持つ者が、諸般熟慮のうえ決定したことだから、

それを受け入れ、従うのが、いい大人だろう。

責任もない輩が、その決定をどうこう言うんでしょうが、

帽子から滴り落ちるしずく、冷えてかじかんだ身体、据わるのも厭われる座席、

……そんな観戦でなくて、むしろ良かったとさえ思いましょう。

こういう事態(降雪による中止) が起こると、きっと、

それ見たことか、だから、秋夏制などできはしまい、という文句が湧いてくる(はず)。

註 ☞ 秋夏制とは、秋にシーズンが始まり、初夏シーズンが終わる方式。欧州でおこなわれている。来年の秋から、Jリーグで実施されることが決まっている。

だが。

Jリーグが発表している秋春制における冬季中断、というリリースさえ確かめようとしない怠惰と、

降雪期間にかぶる、だから、秋春制反対、という無知には、

くれぐれも反応してはいけません。

こういう見当はずれが厄介なのは、同じように、よく考えない連中のアタマに、嘘の情報がすんなりと落ちてしまう点ですから。

秋春制は、いまや、冬季中断における措置の中身について議論しなくちゃあいけないし、

この時季の降雪は、現在の春秋制におけるできごとなのに、

それをネタに秋春制を議論することが、ちょっと考えれば、オカシなこととわかる。

僕などは、じゃあ、真夏の雷雨による中止とイッテコイじゃん、と思う。

ただし。

ここでいう〈無知〉、つまり、思慮の無さは、人間本性のピュアな現れであって、

そこには、なにかを誇ったり、隠し立てするような不純もないのでして、

ゆえに、これからも人類が存続続する限りなくならないので、

楽しくはないが、思慮のできる側が、黙って見過ごすしかないのです、

では。

満月にさようなら。

昨晩の午後8時近く。

友人からショートメールで、

― 今晩、満月はっきりです、と挨拶が届く。

14日は、望月(もちづき、満月のこと)だったのです、今月一度の。

旧暦だと、昨日は、2月15日(きさらぎの15日)に当るので、

西行法師(1118~1190年3月) が、吉野(奈良県南部)の桜を詠んだといわれる、あの歌、

 

 願はくは花の下にて春死なん そのきさらきのもちづきのころ

 

と季節的には、ドンピシャの当夜。

桜花の頃に、満ちた月を眺めながら、この世を去りたい、

と詠ったとおりに、西行が死去したことを、

昔むかしの、日本の文芸人は、感動をもってとらえていた、と聞きます。

では。