
やれ、桜だ、み吉野だ、と。
この時季、あたり前に過ぎるお題目で、陳腐なこと。
横を通り過ぎる時は愛でもするが、
わざわざ出かけて行ってまでして、観桜はしないかな。
と、うそぶいては、
新古今和歌集の〈冬歌〉のところをめくっていたら、
駒とめて袖うち拂(はら)ふかげもなし 佐野のわたりの雪のゆふぐれ (藤原 定家)
が目につく。
おそらく、これは、
同歌集の〈春歌〉に収まった、親父である、皇太后宮大夫俊成 (=藤原俊成) の作、
駒とめてなほ水かはむ山吹の はなの露そふ井出の玉川 、を意識しているんだろうが、 (☞山吹の花に露がしたたる清流で、乗る馬に水を飲ませよう……の意)
なかなかに、技巧的な一首。(定家の得意顔が、目に浮かぶ)
袖に降りつもった雪をうちはらう馬上の殿上人(公家)、といっておいて、
瞬時に、そんな姿はみえないけれど、と打ち消してみせる。
ゆかしき華やかさの、突然の否定。
寂寥として暮れかかる、なにもない冬の野が、いっそう引き立つ効果。
作者が、言葉によって読み手を翻弄する手法のひとつだ。
調べれば、このネガティブなトリックはきっと、定家より前に開発されていると思いますが、
近くでは、石川 啄木や、寺山 修司も使っているから、
日本短歌、あるいは、日本的抒情に存する、根っこのひとつなのかも知れない。
では。

