遺言の完成 (前編)

(データが消し飛んだ以前の記事を、ほとんどリライトで書き留めます)

今から84年前の8月、大病を患った魯迅 (原音で ルーシュン、1881~1936、シナの作家) は、死についての予感をはっきりと抱く。

そこで、遺言とするつもりで、いくつか箇条を並べてみた。
ただし、それを正式な遺言状には仕立てなかったらしい。

(その事を雑文『死』として発表したのが 9月20日で、翌10月19日には、喘息の発作で急逝する)

100年近く経って読んでみて、魯迅の訓示が自分の気持ちに相当近いのに驚きながら、転写する。(訳は、竹内 好による)

❶葬式のために、誰からも、一文でも受け取ってはならぬ―ただし、親友だけはこの限りにあらず。
❷さっさと棺にいれ、埋め、片づけてしまうこと。
❸何なりと記念めいたことをしてはならぬ。
❹私のことを忘れて、自分の生活にかまってくれ―でないと、それこそ阿呆だ。
❺子どもが成長して、もし才能がなければ、つつましい仕事を求めて世過ぎせよ。絶対に空疎な文学者や美術家になるな。
❻他人が与えると約束したものを、当てにしてはならぬ。
❼他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。

残された遺族が、魯迅の注文どおりに処世したのかは知らないけれど、そのままいただいて萬年の遺言にしたって良い。

ただし、もうひとつ足すのはどうか?、と思っている。すなわち、

❽人に手を貸すことを当たり前と思え、けれど、助けてもらって当然と思うな。

では。

視ていることに 気づく夏。

八月下旬の或る日、隣家の軒先に宿っていた燕らが、いづこへか旅立った。

どこかに集合して大きな群れに入ると、これから暖かくなる地をめざして渡っていくんだろう。

……彼らがもう居ないことに思いあたったのは、今月になってから。
なんとも迂闊なことで。

毎朝庭に出ると、敷地を横切っている引き込み線に、数羽の燕がすぐにやって来てとまることに、この夏になって気づいた。

隣家の亭主が家から出て来ると、その挙動を眺めようと巣から出てくる、ということを。

T氏のお宅にも毎年燕が飛来するそうで、しかも、このところずっと、シングルの一羽でやって来る、という。

未亡人か、それとも男やもめかは不明なるも、なんとも義理堅い話ではないか。

下界のほうでうろうろしている人間を、どれどれと眺めている鳥のこころ、それを識っただけでも、この夏には価値が有った、僕にとって。

野鳥は案外、人間の行動に好奇心を持っているらしい。

で、彼岸入り前の数日間には、〈玄鳥去る〉(つばめさる)という季語をあてる。

玄、とは黒色のことで、黒い鳥だから、燕。

遠い旅する彼らの無事を、とにかく祈る。

では。

〈コメント〉
➩つーさん より (9/9 12:09)
玄鳥で倒れし武士に気づく夏。
玄鳥と聞いて妙に暗いイメージが浮かぶので、何故かと考えたら、藤沢周平の文庫本の表紙に、玄鳥が飛び交い、その下に血を流した武士が倒れているという絵があったのを思い出した。それが頭の隅に残っていたのだ。
玄鳥と言う短編小説、下級武士である主人公の悲哀を、昔彼に好意を抱いていた女性の目線から描いた、いかにも切ない作品だった。
藤沢周平と言えば「たそがれ清平」「隠し劍鬼の爪」「武士の一分」など山田洋次により映画化され、どれも見応えのある佳品に仕上がっているが、彼の監督作品ではないのだが「山桜」と言う小品、観た後いたって心が落ち着く作品で、つい何度も観てしまうつーさんである。
では、また。

 

とてもできそうにない 覚悟。


大腸がんで逝った、さる高齢の男性に関する、家人から仕入れた話。

病状もかなり末期になり、ご家族の手に負えなくなって、訪問介護を利用するようになった。
この御方、お世話するようになって、一週間くらいで亡くなったそうな。

排便処置が主なサーヴィスになるが、一日6回の訪問、おそらくは全身の臓器が侵されてもいるので、浮腫みも来て壮絶だったんだろう、と萬年は推測する。

実は、すこし前に、思い余った家族が救急車を呼んだことがあった。
けれど、この男性、どうしても自宅で死ぬんだと言い張って、頑として搬送されるのを拒んだという。

で、その言葉とおりに、ご自宅で最期を迎えた。

この話を聞いて、なんとまぁ意志強固なことか、と感嘆してしまった。

萬年ならば、七転八倒の痛みの中では、もうどうにでもしておくれ、となるに決まっている。
歯医者にかかる時でさえ、痛くさえなければなんでもして下さい、なのだから。
先日も、抜歯後数時間止血しなくて、ぐたぐたと言っておった。

疼痛と死が接近したら、ドクターの治療を拒む元気も残っちゃいまいな、きっと。

多くの人に訪れるだろうこの試練。

その際、どれだけ意志力にモノを言わせられるのか?

こと自分については、まったく自信のカケラもない萬年だ。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より (9/7 15:45)
不満足な生と、不満足な死。どちらも辛いね
病気で亡くなる人のほとんどは、死を迎える数時間あるいは数日前から意識が無くなると言うから、本人は自分の死の瞬間を意識する事は出来ないらしい。死に際まで「おれは死にたくない」なんて叫ばれたら、家族は堪らないだろう。
それにしても、訪問介護の人も末期ガン患者を最後まで世話するのは、仕事とは言え大変なことですね。
普通、それだけ悪くなれば病院なり緩和ケアの施設に入り、そこで死を迎えるだろうが、自宅にいたい気持もわかる気はします。
しかし、家族としては病院で、あるいはケア施設で、治らないと解っていても痛みを抑える処置とか兎に角何かをしてほしいと望むものです。
身内が死を迎える時、その家族は本当に辛い。この病院で良かったのか、もっと何かしてやれなかったものか、何度も思い悩むものです。死までの時間を自宅で過ごすのは、家族に心身共に大変な負担をかけると解っているが、身内の苦労を忖度して大人しく病院に入り、静かにその時を迎えるなんて気遣いは死んで行く身としてはとても出来ないだろう。
満足と言える生さへ生きていない自分が、もう死を身近に感じる歳に来ている。せめて残された者に迷惑かけぬよう、持ち物の整理くらいしておこうか。
では、また。

☞萬年より (9/7 16:24)
或る人は、人生とは、死に至る病である、と言っています。
誕生の瞬間から、最期に向かって時間が刻まれ、また、悩みのない生活などどこにもないのだから、そういう表現も成り立ちますね。
となると、その病というのは、一生かけて毎日毎日積み重ねる、死への準備、ということか……。

帽子の効用。

友人のT氏、最近散歩するようになったら、至極体調が良い、とのこと。

―朝5時にスタートして、とにかく自宅から 2キロくらい遠くまで行ってしまうのがコツでね。
こうするとあとは適当に歩いても、家に戻ってみれば、そこそこ距離が稼げてるんです。

―散歩を始めてみてわかったが、けっこう多くの人々が歩行にいそしんでいる。
自然、すれ違うことになるから、挨拶も必要になるわけ。
でもね、挨拶ができないのが、多くてね。

これは萬年も実感していることで、キチンとした挨拶について、成人は若い世代にはとても胸は張れない。

模範とは(相手に)求めるものではなくて みづから示すもの 。

齢を加えると、それがますますできなくなるわけだ。

長ずるにつれていつしか挨拶を忘れる、のは個人的な人品の劣化ではある。

けれど、民族として挨拶の様式美を確立できないまま放置してきた、という日本人全体の怠慢にもよる、というのが萬年説。

得意先やお客様に対して、上体の折り曲げ角度にまでこだわる律儀な礼。
こんなのは商売という功利が動機だから、取り立ててホメたことでもないが、見ず知らずの人とフト行き交う時の、さりげない笑顔の作り方を日本人は身に着けていない。

家庭的/社会的な訓練をほとんど受けて育たない。

一期一会、と言いながら……。

エレヴェーターに二人きりになった時の、なんとも言えぬ気まずさを考えてみて下さい。
だいたいが視線を合わさず無言で、憮然として上下しているはずだ。

―でもね、行き交う時、挨拶を巧くやる方法をみつけました、とT氏。

ほぉ、どういうふうに?、と訊ねたら、

―うん、すれ違う直前、帽子(たいていはキャップ)のひさしに手をそえて、そっと上体を前かがみにする、軽く会釈する感じでね。
これだと、相手には(無言でも)敬意が伝わるし、相手の反応にいちいちわずらうこともない。

なるほど、帽子にはそういう効用もあったのか。

……ただ、エレヴェーターの課題は依然残りますけれど。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (9/4 16:08)
犬の効用。
毎日夕方、一時間ほど犬の散歩に出かける。以外とこの時間、歩いている人が多い。面白い事に60歳以上とおぼしき人は決まって我が愛犬をラッシーと呼び掛ける。テレビ創成期の番組の影響は大きい。
人や自転車とすれ違う時、念のため犬を座らせる。大概すれ違う人は笑顔になる。若い女性にかわいい等と言われると、わたしも思わず鼻の下が延びる、いや笑顔になる。
犬を連れてるだけで、怪しい人が動物を可愛がる優しい人に変わる。愛想無しの私に代わり、犬が愛嬌を振りまいてくれる。ありがたい存在ではある。
では、また。

☞萬年より   (9/4 22:30)
犬を活かす、ということですね。
この前、菜園の草むしりをしていたら、柴の子犬を連れたご婦人とご挨拶。
子犬のため遠慮なく寄ってくる、そんなことがありました。
 黒犬を 行燈にする 雪の道(柳多留より)、はまた別の効用。

仕事について その❸

夢の中、道でチラシを拾った。

で、なんとなく読んでみる。

見出し〈おすすめ商品をそろえました〉
熱中症、新型コロナ感染症対策には緊急に対応してくださり、感謝申し上げます。
なお続く暑さを乗り切るため、社員各位におすすめの商品を用意してお渡しいたします。
会社の予算で購入して、準備出来次第お渡しします……とか書いてある。

下方にはいくつかの品物が載っていて、希望に〇をする方式らしい。

だいたいがこういう文書は、総務あたりで起草するんだろうが、こうも達意から遠い文章は、久しぶりだ。

まづ、いけないのは、無償配布なのか?、費用負担があるのかが、読者のあたまに冒頭でキチンと入らない。
文の最後になって、会社予算、と有るので、そこまで読んでようやく、これってタダかいな?、となる。

でも、おすすめ商品をお渡しします、はないわ。

進呈するのならば、〈商品〉という言葉はマズイ。
たとえ、会社が取り扱っていようとも、感謝のお品、賞品くらいでないと。

会社施策への協力への御礼はともかくも、暑さをしのぐ、ってのは大義名分としてなんだか弱い。
後になって、タダより高いものはない、にならなければ良いけれど……。

そんな社員の声が聞こえてきそうな気がした。

下命してこの文書が上がってきたら突き返し、書き直させ、なんとか合格圏になるまで添削するのが、部下の能力を高めるべき上司の務めだろう。

短い文章ひとつを作る作業のなかにさえ、仕事のクオリティを上げるチャンスはころがっている。

チラシ?

もちろん捨ててしまいましたよ、夢の中で。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より (9/2 12:33)
文章の恥は書き捨て?
会社から、無償で何らかの品物が頂けるとは、夢のような話しですね。あっ、夢の中の話でしたね。
機会を戴き毎回のように駄文を書き送る私、文章を創るのは本当に難しいと書くたび実感しています。
自分の言いたい事、思っている事を文章にするには、どんな言葉を使ってどう繋げていけばいいのか。
微妙なニュアンスを伝えるには、どの単語を選び、どう使えばいいのか。
会話なら相手の表情や返事によって、内容を補正できるけれど、文章は書いて外に出したら補正はできない。
さらに、出来た文章を読み返すとまるで内容が無い事が多い。
思う事を心の中から引っ張り出し、文章にして外から眺めると、思っていたことは実はこんなに下らないものだったのかと思うことがしばしばある。
悩んだ時、それを文章にして遠目に眺めて見るのも解決の手段になるのかも。
それでも、産みの苦しみを経て産んだ子はどんな子でもかわいい。世間からどんなにか冷たい目線で見れても、頑張って生きてほしい。そんな気持ちで手離しているわけです。
駄文を書くは、今や老人の生き甲斐。内容が伴わずとも広い心でお許し願いたい。
では、また。

☞萬年より  (9/2 15:30)
選ぶことができる表現は、それこそ無限ですから、完成は幻想、と考えたいものです。
何事も、完璧主義はいけません。
せいぜい60~7%で合格圏、でまいりましょう。