平和で悩む悪い癖。

拙宅では、某公共放送の連続番組(15分)が毎日、ふたつ流れている。

ひとつは現在のもの、もうひとつは30年位前の、沢口 靖子が主演しているやつ。

家人は、録画しておいたものを帰宅して、主題歌など早送りでご覧になるのが日課。

その時、居間では食事となれば、自然と物語の断片が当方の耳に入ってきてしまう。

現在放映中のは、作曲家が主人公で、どうやら大政翼賛の事業で、南方の戦線へ取材におもむく、という内容のようだ。

戦争というのは、自分や家族がいつ死ぬかわからないから、嫌なもの。
けれど、国家がそこに突入してしまえば、逃げるわけにもいかないじゃん、というのが民のおおかたの処世だ。
宗教的な信念を別にすれば、いろんな主義は後からつけた大義名分だと思う。

でも、物語を聞きかじっていると、主人公とその家族が、悩むわ悩むわ。

周囲の高揚感や好戦的な熱情下で、自分ひとりが戦いを厭っているような誠実さで。

たとえ戦争遂行へ協力したにせよ、当時、それでそんなに懊悩したのだろうか?、ふつうの日本人が。

ここでトコトン苦悩させておかなければ、主人公の人間性が担保されず、さらに、後世の日本を否定してしまうといった雰囲気や、忖度がいまだに残るんだなぁ、とつくづく気が滅入ってしまう。

敗戦直後、旧海軍のエースパイロットが街を歩いていると、子供たちから「戦犯!」と言われ投石された、という話があるけれど、これとそうは変わらない〈反省〉なのだ。

僕たちは、70年もかかってなにを総括してきたんだろう、かね……。

けれど、NHKさんよ、かつての大戦に対してこういう描き方をするならば、憲法第9条遵守を宣言しておきながら、災害が起きると、へーきで自衛隊を要請するような地方政府の思想的な矛盾も、同じように報道しないと、やっぱりおかしいわ。

日ごろ否定しているもの(自衛隊)をやすやすと使う、っていう節操の無さは好きになれない。

では。

それでも生きたい 秋。

白秋……。

味わいある日本語のひとつ。

転じて、人生の季節としての秋、つまり、中年期以降を指して用いられる、と辞書にはある。

ただし、萬年の周囲で、そういう使われ方を耳にしたことは、いままでほとんど無い。

思うに、きょうびの中年以上の者には、人間的な落ち着きや深みなど、なかなか備わらないからではないか?

月日に晒されて、秋の日差しのごとく透明に老いてゆく、なんてことは……。

例えば、肺がんを患う90歳の男性、担当のドクターが、もはや抗がん治療は施しません、いつ寿命が尽きるやも知れないとの所見、と家族から聞かされ、オロオロと泣き崩れているらしい。

いくつになっても、死とは、ご勘弁願いたいものなんだろうけれど、
こういう話を聞くにつけ、肉体以外の、心の熟成や老成やらはもはや、この民族から消失するんでしょうかね。

……、というわけで、思いは、自然へと向かってしまう。

開花したとたんに冷え込んだためか、金木犀の香りが10日以上とどまっていたり。
無花果(いちじく)の実を、初夏ばかりでなく、十月になって再び摘んでみたり。
ボールに4、5杯は獲れそうな勢い。

学ぶこころさえあれば、自然はいつでも教えてくれることがわかってきた、秋。

同僚が知っている小学五年生(女性)は、文学が好き、という。

どんな作家を好むのかを聞いてもらったところ、
太宰 治、中原 中也、谷崎 潤一郎 という返答。

太宰、中原はわかるが、谷崎とは面白い。

―なかはら ちゅうや、と読むんだ。戦前の詩人だよ。

とか話をしながら、こういう個性がどんどん現れて、いまの大人の感性なんぞ陳腐化して葬り去ってもらいたい、と思った。

で、いただいた雑キノコを眺め、ジョージ ウィンストンを聴きながら、季節の深まりを楽しむばかりなり。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (10/13 12:04)
それぞれの秋を楽しもう。
より空気が透明感を増し、間もなく山の木々が錦に彩られるこの時期、例年なら間もなく訪れる冬のシーズンに備え体力作りに励み始める時期だが、今年は窓の外をぼんやり眺めている時間が多い。
この美しい季節をあと何度味わうことができるのだろうか。まさに肉体的、精神的老いを実感している日々。
しかし、深刻に考えるのは止めよう。これからの人生、まだまだ長い。
人生は自分次第で如何様にも色付けできるはずだ。とりあえず焦らずシンプルに生きよう。日々変化する木々の色づきを楽しもう。
今年の秋はいつもの秋より長くなるような、そんな気がする…。
では、また。

信州の女は そっと逃げ


先日、車検費用を支払うため、整備工場に立ち寄った際のこと。

―向かいの洋菓子屋さんを、チョッと(初めて)のぞいてくるからネ、と言い残して、家人がいなくなる。

前々から気になっていたお店なんだろう。

で、1分経つか経たないか、まだ会計も済まないうちに、戻って来た。

やけに、早いご帰還なことで、と言おうとした先に、

―お値段がね、もうっ、高過ぎて!
お店の人がショーケースの向こうでかがんでいるのをさいわい、声もかけずにそのまま出て来ちゃったわ。

思うに、想定の三倍を超えるような価格で並んでいたに違いない。

―あのね、大阪あたりのご婦人が三人あつまれば、この品物をいかに安価で手に入れたか、という自慢話になるわけ。
これが東京になると、価格はあからさまにしないでおいて、それなりに高価な買い物であったことを十二分に匂わせる。

で、信州の女であるあなたならばですよ、
堂々と、あれま、このお値段、とてもとてもアタシの手は出ませんわ、失礼しました、と言い放って出て来なさいよ。

平和を好む家人としては、黙って退散、が最上の方策だったんでしょうけれども……

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (10/12 10:49)
信州の男は座り込む。
最近あまり聞かなくなった言葉、ウィンドショッピング。私はそれが大好きで、特にスポーツ用品店、雑貨小物類を売る店、眼鏡屋、家具屋、ペットショップなど覗くのは大変楽しい。
最近の販売形態は、あまりお客様に声は掛けないのが主流のようで、品物を思う存分眺められるのがありがたい。
しかしこの頃、若い女性のお客の多い店には入りにくくなってきた
二年程前に行ったディズニーランド、以前はミッキーの耳など頭に着けて闊歩したものだが、その時は若い人の間に身を置き、行列するのもやや違和感を感じるようになっている自分に気がついた。
夢の無くなりつつある人間が、夢の国に身を置くと、何故かややうつむき加減になる。
これではいけない…ご同輩達、ベンチがあるとすぐ座り込むなんて事はやめて堂々と闊歩しようではないか。
では、また。

☞萬年より (10/12 13:11)
座り込むのは、買い物のお伴。
すくなくとも、3~4軒は観てまわり、そして、また最初に戻って吟味する。
ベストバイしたい気持ちは大いにわかりますので、喜んでつき合いますよ、萬年の場合は。
amazonでは、訓練された店員とのやりとりは味わえないですから、やはり店内巡回は大切。
どうぞご覧くださいませ~、のうわずって絞め殺すような声だけは、いただけませんけれど。

正義の側には 決して立つまい。

とあるツイートを読んだ。

―シーシェパードと、真っ向から言い合いになって、
「カンガルーとワニを喰ってる人達に言われたくない」って言ったら、「人の文化に口出しするな」と言い返してきた。唖然ですよ。
……、とあった。

21世紀になって、日本の調査捕鯨に海賊行為の矛先を向けてくるようになった集団らしい物言いなのかどうか。

論争の内容はともかく、
正義の旗を掲げる者こそ、残酷で、非道に陥りやすい。
ゆえに、そういう者には軽々に近づいてはいけない。

たとえば、〈イジメ〉を仕掛ける側のほとんどは、自分は、公平や公正の実現を行なっている、と思ってるんではあるまいか。

だから、正義は自分の側にある、自分こそ正義、といった想念を自分の裡に見出したら、おいおい危険な領域に足を踏み込んでいるぞ、と立ち止まることにしている。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (10/8 14:21)
勧善懲悪は現実的でない。
兎に角、子供の頃から正義を振りかざす漫画、テレビドラマが多かった。正義が悪を徹底的にやっつける。それが当然だと刷り込まれてきた。
ところが、身近には完全な悪、完全な正義など存在しないように思う。ふらふらとそのどちらかに近づいたり、離れたりして生きていく。
正義を完遂するため始めた先の大戦も、敵から見れば我々は悪の権化。
ほどほどの正義を振りかざし、ほどほどの悪に身を染める。出来るだけ極端に走らず中庸の精神で生きていく。
優柔不断と思われようが、そんな生き方が肝要であると私は思っている。
では、また。

☞萬年 より  (10/8 17:39)
竹をスパッと割ったような正義と悪が存在しないからこその〈勧善懲悪〉なんでしょうね、きっと。
必殺仕事人にしたって、お金欲しさに悪行の者を殺害するわけですから。
家では、腑抜けの婿殿を演じながら……。

あえて 差別の汚名を着ても、

……、これだけは言っておきたいことがあって。

お店に入って、品定めをしていた家人が、
―かわっいい~!  、と語尾をふあっと伸ばし、うわずった声をお立てになった。

―おいおい、そのボキャブラリ、分別をわきまえたご婦人が使っちゃあマズイでしょうが……。

その場で反論もなかったけれど、別のお店で再び口にしていたから、どうも聞いて(効いて?)いなかったらしい。

カワイイ、キモイ、それから、ヤバイ、は、これ以外に感情吐露のしかたを知らないテーンエイジャー(の女性) の、いわば三種の神器なのだ。

だから、もっと洒落た感性表現ができるであろう人生の経験豊かなご婦人が、口にする言葉ではありません。

それとも、あえて口にすることで、みずからを若く感じ、かつ、若く見られたいのか知らん?

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (10/6 9:56)
やばいよ、やばいよ。
テレビなど見ていると、カッコいい芸能人を見かけた若い女性達がヤバイを連発している。
私、先日散歩をしていたら近所の女子中学生にやばいを連発された。家に帰り「おれも芸能人なみだね。やばいを連発されたよ」と誇らしげに奥さんに話すと、芸能人に対するヤバイは、良いものを見て感激した時に使うヤバイ、私に対するヤバイは、みたくないものを見て落胆した場合に使うヤバイだそうだ。

そんな区別も出来ない自分が1番ヤバイ。
では、また。
☞萬年 より (10/6 15:32)
感嘆したことを、ヤバい、と表現しているようですね、主に。
数十年前は、その筋の方々が専売特許でご使用なさっていました。
要は、業界の者であることを周囲に明示する語彙だった。
もちろん、原 節子は決して口にしなかったでしょう。(時代錯誤か)

☞ジョー氏 より  (10/7 6:47)