浅ましきこと 浅ましきこと。 

ふと気づくと、メルセデスは、

フロントグリルにでっかいエンブレムが鎮座、さらに、エンジンフードの突先にも、エンブレムを施してある。

そういえば、アウディもかつてより、ずいぶんと、四連のサークルが、大きくなった。

レク〇スの顔は、ダースベイダーとそっくりさんで、

八つ当たりあたりついでに、

ラルフロー〇ンのエンブレムは、左胸にべったりとデカく伸び切って付く。

これらエンブレムの巨大化は、

僕の正当なる偏見と推断によれば、

すべて、かのシナ市場において売上を伸ばさんとする、欧米企業の、臆面なき浅ましさの産物に他ならない。

が、今後もそれでいいのか?

見直しは、早晩おこなわれると思いますが、

それとて、どうでもよいこと、どうでもよいこと。

偏見は人間にとっては都合よくできている。
それは、気安めとうぬぼれを助長してくれる。(by エマヌエル カント 1747年頃)

気をつけねば。

では。

夢想し過ぎて,買う怒り(おそらく)

静岡市清水区の〈河岸の市〉といったら、あの界隈では、鉄板級の、食事処。

活気に満ちた魚市場が在って、その奧には、まぐろ館という、豪華な海鮮ものを押し出す食堂街。

が、僕のお目当ては、魚市場入り口の右手。

店のドアがわからないほど、ひっそりと、女将さんと、ほかに女性がふたりでやっている食堂〈どんぶり君〉

たしか、朝7:00から始めて、13:00には閉店。(日曜日定休)
なぜなら、おもに、清水港で働く人々や地元民が利用するからでして、

豊富な定食メニューから選べて、たとえば、

まぐろ定食は、まぐろ丼の他に、たしか2品ついて、千円で食せる、というコスパの良さ。

主に、観光客狙いのまぐろ館のお品代が、3,000円はくだらないのとは、世界がまったく違う。

しかも、ここのは、酢飯でなくて、あったかなご飯を使っていて、ありがたい。

ゆえに、どんぶり君へは、サッカー観戦(@IAIスタジアム)をかねて参上するには、土曜の午前中を狙うのみ、と稀少。

我がチームのことをのぞけば、昨季は、エスパルスがトップリーグ昇格を逸したのが、いちばんの衝撃であったのですが、

来季、どんぶり君行きが実現するためには、カップ戦で清水さんとやるか、それとも、リーグ戦で当るのか?、の二択。

で、後者を希求する、なんてぇのは、

それを知ったエスパルスファン&サポーター様ならば、怒り心頭となるや、必定でありましょう。

滝 裕太放出の、忘恩甚だしい、とか。

……、なんてことを、壁一面に、歴代の季ごとのエスパルスポスターや、プレイヤーによる色紙が貼ってある、どんぶり君の光景を思い出しては、

清水の皆様には、あくまで内緒で!!!、願っています

では。

思想で敗けた,あの戦争。

明日2月11日を、建国記念の日、と名づけるのも無理があるだろうに。

と、年に一度は、思う。

かつての紀元節を踏襲した日取りに過ぎないし、

そもそも〈建国〉の時季さえはっきりしない(神話) のが、この国の長い歴史の故なんだから、あえて国家独立の日は、きめなくていい。

やりたけりゃ、元旦と一緒に祝ったら?

さて。

神武即位で始まった〈紀元〉の、数えて 2,600年目が、1940 (昭和15年)に当り、

この年に、帝国日本海軍に採用された戦闘機だったので、下二桁 00 を採って、

零(00)式艦上戦闘機と命名されたのが、ゼロ戦の名で有名な、あの戦闘機。

実戦投入から2年間くらいは、他に圧倒的に優位な性能を誇った。

その速度、航続距離、上昇能力の運動特性、重火器武装などによって。

いまだに、レイセンを、傑作機と持ち上げる論調があるし、性能だけを言えば間違いではなかろう。

が、その性能を生みだすためには、徹底した軽量化を施していて、

そのために、機を駆るパイロットの、居住快適、安全は、無視された。

この国の、労働者全体に対する安全思想全般が、当時、その程度だったから、

発注した側の海軍や、受注した三菱重工業社を、

パイロットの労働安全衛生確保の思想が皆無だった、といって特別に責めることはできない。

たとえば。

台南基地を本拠とした零戦部隊は、

味方の爆撃機を護衛するため、エアコンなき氷点下の操縦席で、高度数千キロを数時間かけて飛行。
爆撃地に着くと、数十分の迎撃作戦に従事。
それからまた、数時間かけて帰投、その連続だった。
操縦席では、握り飯数個とお新香くらいを食す。

当時、これが、日本人の当たり前だったのかも知れない。

ただ、そうやって作戦の日々を通じて、多くのパイロットが損耗していった。

他方、米国は、作戦中に鹵獲した零戦を徹底的に分析して、これを〈脆弱な〉戦闘機と結論。

以後、対零戦用の戦術を開発、あるいは、ゼロファイターを上まわる性能を有する戦闘機を投入する。

太平洋戦争は、物量差を生んだ経済力(総力戦)で負けた、とよく聞く。

それも一理。

ただ、それは開戦当初からわかっていたことではないか。

だからこそ、あの戦争を、奇襲作戦ではじめたんであって、ならば、

いつ戦いを終わらせて外交が出るのか?、の時季を冷静に読んで、終結するべきだった。

が、そういた青写真もないままに無為に時間を過ごした、国家指導層の怠慢がひとつ。
(戦争終結の動きは、あったにせよ)

もうひとつには、

上に書いたような、パイロットの安全(=生命)軽視にみられる、

玉砕しても戦い抜け、といった労働者(人間)の使い捨て思想が、

どうにもならなくなったら投降せよ、と教える、労働者(人間)の温存と、その再生と活用までを計算に入れる、合理な思想に負けたのだ。

(民主主義 対 独裁体制、といった薄っぺらい構図ではないことに、注意せよ)

 

いつまでも、一面だけをみて日本海軍の傑作機、と誇ってていいのかいな?

そして。

人間の使い捨て思想は、いまも、僕らの周辺に形を変えて生き延びているので、

90年前の日本人を笑ってもいられないことは、確か。

では。

ユダヤの我慢と自制。

世論がおかしく誘導される現状にあっては、

この記事によって、僕が、好戦主義者、シオニストと決めつけられても不思議はない。

けれど。

メディアの偏向は、観ていて辛くなるほど虚しいことであるから、(アリバイとして) 記しておきます。

それは、イスラエルによる、ガザ地区への軍事攻撃の件。

数千年来の過去から、ずっと、

地中海東岸一帯は、多民族、種族による領土の奪い合いが、日常的だったエリア。

その地がどの民に帰属すべきか?、なんてのは、いまさら神話の過去までさかのぼってしまって、判然としない。

せいぜい、抗争の根源を、

第一次世界大戦時、グレートブリテン(イギリス)が、アラブ人とユダヤ人双方に、独立国樹立を支援するといった、相反する不正直外交をおこなったことに求めるぐらいだろうが、

(映画『アラビアのロレンス』のモデル、T.E.ロレンス1888~1935 は、アラブ支援のために派遣された英国軍人、考古学者)

ただ、それにしたって、歴史を変えることもできない。

結論から言えば、

イスラエルによる、ハマス掃討を目的としたガザ地区への軍事作戦は、

かの勢力が、ボーダーを越えて、ロケット弾と戦闘員をもって、イスラエル側に侵攻、民間人を殺害し、人質として拉致し去ったことが直接な発端。

つまりは、きわめて一方的な侵略行為によって惹き起こされたもの。

ハマスにしたって、反撃など覚悟のうえで始めた武闘だろう。

人質の殺害は今も、続いているらしいから、ガザ侵攻が継続されるのは、当たり前の話で、

僕からすれば、イスラエル軍は、驚くくらいに自重気味で、慎重な作戦を展開している。

(アラブの某国による挑発的な攻撃に対し、即、報復攻撃をおこなった米国よりか、よほど自制的な姿勢に思える)

相手は民の間に潜むのだから、イスラエルにしてみれば、民間施設へ攻撃をおこなわざるを得ない。

こういう事象に対し、日本のマスメディアは、多く、

イスラエル攻撃によって、いかに多くのガザ住民が落命、負傷しているかを伝える。

ならば、その幼児が成長すれば、やがて、幼くしてロケット砲を担がされるか、あるいは、自爆テロに使役されるかも知れない現実も、あわせて報じなければいけない。

火の粉の及ばない遠くの地から、戦争とアラブ人の悲惨を嘆くあなたなら、

四ツ谷の二番町に、出かけてみるがよい。

狭隘な通路の向こう、小さな覗き窓の、頑丈なドアに閉ざされたイスラエル大使館のあり様と、

すぐ近くの、開放的で明るいベルギー大使館との、鮮やかな対照。

まづは、ユダヤ人(とその国家)が、僕らが想像できないほどの緊張の中で暮らしていることを感じること。

いろいろ言うのは、それからだ。

では。

地元……。

地元であることをありがたがったり、ことさら称揚したりする風潮は、まったく好きになれない。

たとえば。

その精神でやっているおかげで、松本市美術館の所蔵品(常設展) の低クオリティといったら、目を覆うばかりなんである。

これを、ミレー蒐集に努力した山梨県とくらべれば、一目瞭然だ。

さて。

先日の、(男性)都道府県対抗駅伝で、長野県が、何連覇かでトップを獲り、喜ばしいニュースだ。

女性のほうも、けっこう上位だったらしく、素晴らしい。

で、男性のほうは、佐久〇〇高校在籍、あるいは、OBの長距離ランナーで一貫したチームだった、ということだから、

〈信学会〉という、いち教育産業の、数十年に及ぶ企業努力が報われているわけで、それこそが、讃えられるべきこと。

ある意味、サッカー界における〈青森山田〉と双璧をなすぐらいの快挙ではあるまいか。

これには、県別対抗駅伝の登録上のカラクリがあって、

大学生までは、出生地、出身中学と高校、

社会人だと、所属クラブや企業の所在地、あるいは、本籍地、居住地、勤務地から、自由に、希望する県を選んで出場できる制度が、それ。

つまり、地元感、郷土を演出するために、むしろ、登録要件を甘くしているという事実が、まことに面白い。

甲子園で闘うプレイヤーには、そんな意識がなくっても、

観ている方が勝手に、地元を思い入れするという現象にあやかりたいんでしょうね。

では。