昔、中学生の頃、
(当時、セザンヌとゴーギャンがもっとも好きな作家だった)
ゴーギャンの画のひとつ(1898年頃の完成)に、
〈我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉
とタイトルがあるのを知った。
横長の画面の中央には、半裸の女性が立つ姿が描かれ、
その両手を頭上に伸ばして樹から果実をもぎろうとしている。
……さて。
バイブル(旧約聖書)の記述には、
人間(の始祖)が、神と共に、エデンの園に住めなくなったのは、
善悪を知る木の実(食するのを神が禁じてあった)を、食べたことで、
智恵を獲たため、とある。
この箇所だけでも、聖書はたいそう洞察力に富むが、
これがまこと、とすれば、
全人類は、せいぜい小学校に入るころを境に、
神と一緒に暮らす特権を失う。
この年齢あたりから、
悪いこと、良いことの判断を身につけて生きるからだ。
動物以上、けれど、神(絶対的な全能者)未満(になれない)の、人間には、
けれど、智恵、すなわち、考える力(悟性とも判断力とも) が与えられていて、
この能力を、武器として、意識的に最大限使うしかないべぇ、と作りあげてきたのが、
ここ数世紀の西欧の学問と文明であって、
日本も、江戸時代を終わりにして150年このかた、この潮流に乗っかっている。
夏目 漱石は、どこかで、
西洋が100年かかってやってきたことを、明治は 40年で繰り返している、と書いた。
漱石の感想(の中身)を、それからの100年の中で、
日本人は、トコトン吟味してこなかった、というのが、僕の感想……。
では。